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「短くてもいい。充実した人生を送りたい」
そう語った言葉通りに、モディリアーニは波乱に満ちた生涯を36歳という若さで終えました。
彼の劇的な人生は天性の美貌とともに伝説化され、後に映画化されているほどです。
「モンパルナスの貧乏な貴公子」と称された彼は一体どんな人物だったのでしょうか?
モディリアーニはユダヤ系イタリア人で、エコール・ドパ・リの代表の一人とされています。
幼少の頃より絵画制作に携わっており、1906年にパリに移住してそこで本格的な制作活動を行い始めました。
当初はアフリカ美術に影響されて、彫刻作品の制作をして、サロン等に出品します。
しかし生来、虚弱体質であったことや幼き日に肺結核を患ったこと、そして内向的な性格が災いして、アルコールに依存したりハッシンを多用するようになりました。
結果、健康を害したモディリアーニは、彫刻制作をあきらめてしまいます。
この頃、同棲生活をしていたジャーナリストのベアトリス・ヘイスティングスの生活も破綻しました。
ベアトリクスはアル中で、モディリアーニは麻薬に溺れていたと言われています。
その後、著名な画商ポール・ギョームや画家マックス・ジャコブらと知り合い、彼らのすすめで絵画制作に専念し始めました。
そして1917年に、後の妻となるジャンヌ・エビュテルヌと出会います。
モディリアーニは33歳、ジャンヌは19歳でした。
二人は出会ってすぐに安ホテルを転々とした共同生活を始めました。
ジャンヌは聡明で心優しい女性でしたが、モディリアーニは酒に溺れた生活態度を決して改めようとはしませんでした。
彼は彼女をモデルにした肖像画を多く描きます。
その絵画を展示した個展がベルト・ウェイル画廊で開催されました。
しかし、展示された裸婦像らは、市民に刺激を与える道徳に背いたものとみなされて、警察に撤去されてしまいます。
そのため、作品は一枚も売れなかったのです。
1920年にモディリアーニは、泥酔と持病により肺炎を起こしこの世を去ります。
そして、ジャンヌは彼の後を追い、第二子を身ごもっていたのにも関わらず、アパートから投身自殺を図りました。
貧困と病のうちに死を迎えたモディリアーニは36歳、ジャンヌは21歳でした。
<アメディオ・モディリアーニの作品>
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