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外出するときは常にシルクハットを着用していたという生粋のパリっ子マネは、写実主義から印象派への橋渡しをした画家です。
「カフェ・ゲルボワ」で毎日のように芸術論を交わして印象派となるグループの中心的な存在となり、後に「印象派の父」と称されました。
しかし、そうであるのにも関わらず、彼は一度も印象派展には出品をしませんでした。
一体何故なのでしょうか?
当時、彼は絵画の指導的役割を果たしていた一方、矛盾するようですが、保守的な考えを持つ人間でもありました。
そのため印象派の急進的な考えについていけなかったと言われています。
彼のそうした思考は描いた作品に秘めれており、後世の人々に多くの謎をまた残す結果となりました。
それが、マネの作品の魅力ともなっているようです。
そうした彼は一体どんな人物だったのでしょうか?
マネはパリの裕福な家庭に生まれ育ちました。
父親に画家になることを反対され、海軍兵学校を受験しますが失敗します。
これは、船員をしながらも毎日写生していたためだといいます。
父親はついにあきらめて画家になることを許し、マネはトマ・クチュールに師事することになりました。
そして1861年にサロンに出品すると、初入選を果たします。
しかし、その二年後、「草上の朝食」を出品すると、不道徳な絵画としてサロンから厳しい批判を受けました。
さらにその二年後出品した「オランピア」が、また激しいスキャンダルを巻き起こしました。
この二点はマネの代表作とされていますが、当時のサロンでは凄まじい反感を買ったのです。
彼が描いた当時のフランス社会に生きる実際の女性の裸体像は、それまでの絵画の伝統を壊してしまったからです。
当時の裸婦像は神話世界に登場する女性でした。
彼は等身大の市民生活を芸術としてキャンバスに描き出したのです。
私生活では、彼はボードレールやゾラなどの詩人や作家とも交流を持っていました。
51歳の若さで死去すると、その棺のローブをゾラやモネらが持ったと言われています。
<エドゥアール・マネの作品>
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