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フレデリック・レイトンは医者の息子として、1830年にイギリスのスカーバラで生まれました。
彼の一家はフランス・イタリア・ドイツなどの諸外国に何年も滞在したため、レイトンは幅広い知識を持つ数ヶ国語の言語が堪能な人物に成長します。
また若い頃から画才を発揮したため、滞在した先の国々の美術学校で入学を許可され、そこで絵画を学んでいます。
1842年から43年まではベルリン美術学校、1845年から46年まではフィレンツェの美術学校、1846年にはフランクフルトのシュテーデル美術研究所で学びました。
1852年になると、彼はローマへと移り住みます。
そこで彼はオペラ歌手のアデレード・サルトリに当時の流行の集まりを紹介され、彼はさまざまな国の画家たちと親交を持つようになります。
ここでレイトンは彼の最初の傑作となる「フィレンツェの通りを行列によって運ばれるチマブーエの聖母」を描きました。
この作品は1855年にロンドンで発表され、大変な好評を得、ヴィクトリア女王に買い上げられました。
このとき、彼はまだわずか25歳でした。
しかしその後彼は低迷期を迎えます。
1855年から彼はパリに移り住み、当時の主流であった新古典主義と「芸術のための芸術」といった主張を取り入れた作品を描きはじめます。
彼はロイヤル・アカデミーやその他ロンドンの展覧会に出品し続けますが、「チマーブエ」のような成功は得られませんでした。
そして1859年にロンドンへ移ると、彼は画壇から見放された自分に気づきます。
そして進歩的な画家たちのさまざまな集団に対して不安を持ちはじめました。
しかし、その後彼が描いた作品「追放されたダンテ」と「黄金時代」は大絶賛され、彼は絶対的な成功を勝ち得ます。
ここより彼は華やかな栄光の道を辿っていきます。
まず彼はロイヤル・アカデミー準会員に選出されました。
そして1860年代後半にはケジントンに壮麗な屋敷を建立します。
この豪邸は「レイトン・ハウス」と称され、現在では美術館となって彼の制作した彫刻や絵画作品が収められています。
1868年にはロイヤル・アカデミー会員、そしてその10年後には会長にまで上り詰めます。
彼はこの会長職を20年近く務め、アカデミーの組織を強化することにも邁進しました。
1878年にはウィンザーで最下級勲爵士を授けられた他、レジオン・ドヌール勲章も受章します。
1886年には準男爵の位を授けられ、1889年には彫刻でローマ賞を受賞、そしてその同年にフランス学士院会員にも選出されました。
1896年にはついに男爵の位を授かりますが、その翌年に狭心症の発作を起こしこの世を去ってしまいます。
彼がこの世を去った後の1900年には、彼の作品はパリ万博でイギリス展示の象徴と見なされます。
レイトンは画家で最初の貴族に列せられた人物でしたが、彼は生涯独身を通したため、レイトン男爵家は短期間で断絶してしまいます。
美術家として華やかな成功をおさめ、かつ絶世の美男子であったのにもかかわらず独身であったのは、彼が同性愛者であったからだと言われています。
<フレデリック・レイトンの作品>
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