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ローランサンについて語るとき、決して忘れてはならないのは天才詩人ギョーム・アポリネールの存在です。
ギョーム・アポリネールは27歳のとき、ピカソの紹介で22歳のローランサンと出会いました。
当時、彼女は、後にエコール・ド・パリと呼ばれる人々のアトリエ「洗濯船」で「ミューズ」と呼ばれていたマドンナ的な存在でした。
彼女はその才能と美貌で男たちを夢中にさせていたと言われています。
アポリネールはそんな彼女と恋愛関係に陥り、他の画家や詩人、画商に次々と紹介して画壇のプリンセスにまで押し上げていきました。
ですが、その恋愛もアポリネールのローランサンへの独占欲、彼自身の数多き浮気によって破局に向かいます。
決定的だったのは「モナリザ盗難事件」です。名画「モナリザ」がルーブル美術館から盗まれてしまったのです。
アポリネールはモナリザを盗難した一味として疑われました。(後にこれは無実だったと証明されますが・・・・・・)
アポリネールは彼女と別れた後、彼女への愛を綴った詩「ミラボー橋」を創作します。
この詩は後に、第二次世界大戦後復興期のパリ市民の愛唱歌となりました。
二人は別れてからも文通を続けますが、ローランサンはドイツ名門貴族のオットー・クリスティアン・フォン・ヴェッチェンと結婚します。
これは一説によると私生児だった彼女が、公爵夫人の肩書きが欲しかったためともいわれてます。
ですが、この結婚生活も彼女を幸福にしませんでした。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、彼女らはスペインへの亡命を余儀なくされました。
戦時下の厳しい監視の下、自由もなく、夫のオットーは酒に溺れて数多くの愛人を作り、ローランサンの神経は次第に病んでいきました。
ローランサンは彼女との愛で、己自身と創作意欲を回復させました。
そんな彼女を救ったのは、人気デザイナーポールポワレの妹、ニコル・グレーでした。
これが、彼女の同性愛の目覚めでありました。
戦争が終了し、再びパリへ戻ると、彼女はオットーと離婚します。
そして個展を成功させると、再び画壇のプリンセスへと返り咲いたのです。
彼女に描いてもらうことがパリ社交界の流行になりました
ローランサンは、あのココ・シャネルの肖像も描いています。
(しかしシャネルはこの肖像を受け取りませんでした。彼女の自分への愛に気づいていたからと言われています)
そして、舞台装置や衣装デザインも手がけるようにもなり、時代の寵児となって栄華の絶頂を極めたのです。
ですが、栄光の時は長く続きません。
時が移り、新しい時代が到来すると、彼女
の絵は古きものとなり、人々にその存在すらも忘れられていきました。
孤独な晩年を彼女は21歳年下の情愛の相手シュザンヌ・モローと過ごしました。
そして彼女を養女に迎えた後、彼女は波乱に満ちた生涯を72歳で閉じることになります。
<マリー・ローランサンの作品>
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