Edward Coley Burne-Jones

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ

イギリス バーミンガム出身

1833-1898

 ラファエル前派

 


 

 

”廃墟の中の恋”

1894年

ワイトウィック・マナー所蔵

 

 

 

 

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズは1833年にイギリスのバーミンガムで誕生しました。

彼の母親は彼が誕生したわずか数日後に亡くなってしまい、彼は額縁師でもあり金箔師でもあった父親に育てられて成長します。

成長した彼は地元のキング・エドワーズ・スクールで教育を受け、その後は聖職者を志してオックスフォード大学のエクセター・カレッジに進学しました。

1855年に彼は大学でウィリアム・モリスと知り合い、彼と友人になります。

モリスとはこのときより亡くなるまで交友関係が続きます。

彼はモリスとともにジョン・ラスキンの著作に学んで、ラファエル前派の絵画に注目するようになりました。

そしてその同年にモリスとともにフランスへ訪れ、彼は聖職者ではなく芸術家として道を歩んでいくことを決意します。

 

翌年にはロセッティに会い、彼から変則的な指導を受け始めました。

またその翌年にはオックスフォード大学の壁画装飾に、彼を助ける青年画家の一人として参加します。

しかしロセッティの下で絵画を学んでいたとはいうものの、彼の芸術性を発展させたのはイタリア美術でした。

彼は1859年には初めてイタリアを訪問し、また62年にはラスキンと再訪しています。

そのとき彼はヴェネツィア美術を集中的に学びました。

 

彼は1861年に創立されたモリス・マーシャル・フォークナー社のステンドグラスや家具などの装飾美術のデザインを手がけます。

美術家になることを決めた彼は、結局学位を得ないまま大学を卒業し、イギリスのステンドグラス美術の伝統の復興に力を注ぎこむようになったのです。

1864年になると彼はオールド・ウォーターカラー・ソサエティの会員に選出されました。

 

1860年代においての彼の水彩素描の作品は、芸術は単に説明的目的だけを持つべきではないという考えにくみしたものでした。

その代表的な作品が1864年に制作した「緑の夏」です。

この作品は女性たちが本を読む人の言葉に心を奪われているのが示されていて、細心な秩序ある構図の中に人物を配して叙情的で抽象的な感じを生み出しています。

また1866年に制作した「悲嘆」は、古典的な衣装で描かれた人物が、音楽の力によってもたらされた失意または悲しみの雰囲気が表れています。

さらに彼は「キルケのワイン」や裸体の男女がともに描かれた「ピュリスとデーモボーン」のような神話的主題の作品も描きました。

最後の水彩画は1870年代のオールド・ウォーター・カラー・ソサエティ展に展示されました。

しかしその作品は理由もなく性的な性格を持つと見なされたために反感を呼んでしまったのです。

彼は展示していた作品を取り下げて協会を脱退しました。

そしてその後、彼は孤立し、隠遁者のような生活を送るようになります。

 

1870年代は彼はほとんど展覧会を開催せず、低迷期を向かえました。

私生活も荒れていきました。

モデルであったマリア・ザンバコとの情事が世間に知られて彼女が自殺未遂を起こしたり、友人のモリスが妻のジョージアに恋したりなどと散々な目にあいます。

それは1877年にグローヴナー・ギャラリー展が開催されるまで続きました。

彼はこの最初のグローヴナー・ギャラリー展に8点の油彩画を出品しました。

これらの作品は大絶賛されセンセーションを巻き起こしました。

そして彼は当時のイギリスの芸術家の中で最も独創的で実力のある画家と見なされるようになったのです。

この後彼は華やかな経歴を辿ります。

1881年にオックスフォード大学から名誉学位を授与され、さらにその2年後には特待交友となります。

1885年にはバーミンガム芸術家協会の会長に就任し、1894年には騎士の位を授けられました。

1887年にはグローヴナー・ギャラリーからニュー・ギャラリーへと移行します。

地位と名声を手にした彼ですが、アカデミー展には1886年にただ一度だけしか出品しませんでした。

それもレイトンに強く勧められてのことだったといいます。

 

彼は後期には大きなサイズで絵を描くようになります。

最も大きい傑作の中には「いばら」や「ペルセウス」などの作品があります。

巨大な「アヴァロンのアーサー王」に至っては、後半生長期に渡って制作されました。

こうした作品は隠者のような生活を送っていた時期に訪問したイタリアで、ミケランジェロやマンテーニャの作品を学んだことが基盤となっています。

大家たちに影響を受けた彼の後期の作品は、それが顕著に示されています。

 

彼は後期ラファエル前派や唯美主義運動に発する憂鬱な逃避主義者の文化の中心人物でした。

彼はまた自分の芸術の超俗的な特徴を次のような言葉で定義しています。

「絵は美しく、ロマンティックな夢。それはかつて輝いたどの光よりも素敵な光の中にあって、誰も何処だか分からない記憶にもない土地で繰り広げられる、

一度も存在したこともないし、これからもありえないような、ただの願望のようなものだ」

彼のこのような芸術性はヨーロッパ諸国の画家や新時代の画家たちにも称賛されました。

 

限りなく続くかと思われた彼の栄光も1896年に長年交友を続けてきたモリスが亡くなったことによって終止符を打ちます。

親友の死により精神的に打ちのめされた彼は、自身も健康を損ねていってしまうのです。

そしてそれは回復することなく、彼は1898年に65歳でその生涯を閉じることになりました。

彼の葬儀はウェールズ大公の仲介によりウェスト・ミンスター寺院で執り行われました。

芸術家でこのような光栄に与ったのは彼が初めてだということです。

 

彼はその死後も周囲の人間に多大な恩恵を与えています。

彼の息子フィリップは肖像画家として成功おさめ、娘マーガレットはモリスの友人のオックスフォード大学の教授のジョン・ウィリアム・マッケイルと幸せな結婚をしました。

そして彼の工房の弟子であったチャールズ・フェアファックス・マレーは画家として成功しただけでなく、尊敬される美術商にもなっています。

またフランスの象徴主義者に多大な影響を与えた他、高名なイギリスの詩人アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンにも霊感をもたらしました。

これらは彼が名門マクドナルド家と結びついたことが起因となっています。

彼自身は貧しい家の育ちだったのにも関わらず、1860年にかねてから婚約していた裕福な一族の娘ジョージア・マクドナルドと結婚することができました。

このマクドナルド家は多くの不世出の輩を輩出している名門の一族でした。

長女は「ジャングル・ブック」の作者ラドヤード・キップの母親であり、次女は彼の妻、そして三女はラファエル前派の巨匠エドワード・ポインターの妻となっています。

四女に至っては製鉄業者のアルフレッド・ボールドウィンと結婚し、そして後の首相となるスタンリー・ボールドウィンを産んでいます。

母を早くに亡くして兄弟もいなかった彼は、しっかりとした家柄の娘と婚姻することで、自分の血を絶やさずに次代へと紡いでいったのです。

  

<エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズの作品>

木に縛られた王女

1866年

個人

プシュケを救い出すクピド

1867年

ハマスミス・フラム区役所

 


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