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ジョージ・フレデリック・ワッツはピアノ製造業者の息子としてロンドンに生まれました。
彼は繊細で病弱な子供であったため、正規の学校教育を受けることができませんでした。
しかし早くから芸術の才を示していたため、一家の友人であった彫刻家から素描を習うことになります。
その後はニコラス・ワノストロクトのアトリエに入門し、18歳になるとロイヤル・アカデミー美術学校へ入学しました。
もちろんロイヤル・アカデミー展にも出品をします。
1843年には国会議事堂の壁画コンクールに提出した「ローマの街を引き回されるカラタクス」という作品が一等賞を受賞しました。
ワッツはこのコンクールで入賞した賞金でフィレンツェへ渡ります。
彼はここでミケランジェロやティッツィアーノの芸術に傾倒し、これらを熱心に研究しました。
そして1848年にイギリスに戻った彼は、自らも壁画を描くことを望みましたが、残念なことに建物を入手することはできなかったため、それは叶わぬ夢で終わりました。
その後はケジントンにあるプリンセプ一家とともに暮らし始め、イタリアで学んだルネサンス絵画を土台に、イギリス美術の水準を高めるような制作に邁進しました。
彼は聖書を題材にしたモニュメンタルな歴史画や人間の心理状態を表す野心的な寓意画を描くようになります。
また他にもフレスコ画を試み、いくつかの公共施設や教会に壁画を描いたりもしました。
1864年に彼は結婚をします。47歳のときでした。
相手はエレン・テリーという女優です。このとき彼女はまだ16歳でした。
結婚してから一年もたたないうちに二人は破局を迎えます。
エレンが別の男と駆け落ちしてしまったのです。
ワッツは結局エレンと離婚することになりますが、その手続きには1877年までかかりました。
1881年に彼はロンドンへ移り住み、ケジントン、リトル・ホーランド・ハウスの家に工房を作りました。
そこで制作された彼の画期的な作品は、ホワイトチャペル・ギャラリーで展示されました。
またヴィクトリア女王から爵位の授与の話もありましたが、彼はこれを辞退します。
1886年に彼は再婚をします。69歳のときでした。
今度の相手はメアリー・フレイザー=タイトラーという36歳のスコットランドの陶芸家です。
1891年にワッツは妻メアリーと共にコンプトン近郊に引っ越します。
そして彼らは自分たちの住む家の近くにあった建物をワッツの作品だけを展示する美術館にするために改築をしました。
これはイギリスにおいて初の「一人の画家のためだけに建てられたギャラリー」となりました。
ワッツは肖像画も多く描きました。
依頼によるものもありましたが、彼は自分自身が社会的に重要だと見なした人物の肖像を描いています。
彼が描いた人物の中には、チャールズ・ディルク、トーマス・カーライル、ウィリアム・モリスなどがいました。
また晩年には彫刻制作にも力を注ぎました。
最も知られるのは「躍動する力」という作品で、これは大英帝国主義者のセシル・ローズに捧げられています。
数多くの優れた作品を描き、美術活動にも推進したワッツは、1902年にメリット勲章を授与されます。
そしてその二年後、彼は他界しました。87歳でした。
生前から画家として名声を極めていたワッツですが、死後それは失墜してしまいます。
新勢力のモダニズムが台頭してきたためです。
今の彼の正当な評価は、彼を研究したヴェロニカ・フランクリン・グールドの献身さによるものです。
ワッツの死後、約1世紀に渡ってのようやっとの名誉回復でした。
<ジョージ・フレデリック・ワッツの作品>
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メイ
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1867年
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マンチェスター市立美術館所蔵
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