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ギュスターヴ・ドレは19世紀に活躍したフランスの挿絵画家です。
彼は生前より非常に人気が高かった画家で、高名な文学者や詩人の書物の挿絵をその生涯において多数描きました。
その中にはあのダンテやバルザック、そしてバイロンやポーなどがいました。
また彼はイギリス版聖書の挿絵制作も手がけており、それが大成功を治め、個展を開催するまでに至っています。
彼はその人気に応えて非常に多くの作品を描き、多忙な日々を送ったと言われています。
そのせいでしょうか、彼はわずか51歳という若さで周囲に惜しまれながらその生涯を終えてしまいます。
しかし実は彼は正当な絵画修行をしていない画家でありました。
そんな彼は一体どんな人物だったのでしょうか。
決して長かったとは言えない彼の人生を追いながらその人物像を?みとってみることにしましょう。
ドレは1832年にフランスのストラスブールの土木技師の家で生まれました。
彼は寄宿生の頃から素描に親しんでおり、グランヴィルの風刺漫画に触発されてわずか8歳で挿絵を描いています。
そしてまた13歳でリトグラフを制作するなど若い頃からその画才を発揮しました。
15歳になると彼はパリの「ジョルジュナル・プール・リール」誌に挿絵を発表します。
そしてその翌年には描いた素描がサロンに入選しました。
その後、彼は数々の文学作品の挿絵を手がけていくようになります。
彼の描く的確な描写力とドラマチックな構図は当時の画壇から大変な好評を得ました。
描く作品の質の高さも驚くべきものでしたが、制作した数もまた驚嘆に値すべきものでした。
1856年においては彼は実に700点もの挿絵を制作しています。
それに加えて彼は美術学校へ通ったり、大画家の弟子になったり、イタリア留学をしたりと油彩画への絵画修行も怠りませんでした。
これは正当な絵画技術を学ばなかった彼の劣等感が起因していると言われています。
第二帝政期には挿絵の巨匠としてフランスで最高の名誉であるレジオン・ドヌール勲章を授賞しました。
そしてナポレオン3世からコンピエーニュ城への招待も受けます。
画家としての活動以外に、彼は1870年の普仏戦争において近衛兵として従軍しました。
しかし故国フランスは敗れ、故郷であるストラスブールのアルザスは国土でなくなってしまうという悲劇に見舞われてしまいます。
彼はこのときの体験をもとに戦争の悲哀や現状を、写実的かつ寓意的にドラマッチクな構図で作品を描きました。
1870年代後半になると彫刻も手がけるようになり、友人アレクサンドル・デュマの記念碑の制作もしました。
彼は実に多作多忙な画家だったといえましょう。
その過労から彼は心臓発作を起こし、早世してします。
短い人生でしたが、ドレは素描家として早熟な才を世間に知らしめ、かつ挿絵画家として名声を極めました。
しかし彼が望んでいたのは正当な油彩画家として自身を画壇に認めさせることにありました。
彼はその希望を終生失うことなく挿絵を描きながら油彩画を描き続けた画家であったのです。
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<ギュスターヴ・ドレの作品>
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曲芸師たち
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1874年
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ロジェ=キリオ美術館所蔵
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