森瑤子(もり・ようこ)
1940年ー1993年 胃癌により死去
静岡県伊東市出身
東京藝術大学器楽科卒業
朝日広告社勤務後、フリーのコピーライターへ。その後作家として活躍。
イギリス人の夫と三人の娘がいる。
1978年「情事」で第2回すばる文学賞受賞
昨今悲しいことがある。
それは、故作家・森瑤子さんの作品を見つけるのが難しくなってしまったことだ。
今から15年程前、書店に彼女の著作が並んでいるのは当たり前のことであった。
また執筆活動だけでなく、対談や講演会を数多くこなしていた彼女の名は、新聞やTVでもよく見かけたものだ。
「森瑤子」という名は何処にでもあった。
今、彼女の早すぎる死から10年以上の月日が経ち、作品と共にその名が忘れ去られようとしている。
時の流れは残酷である。
あれほどまでに他者に強烈な感銘を与えた作家はいなかったというのに。
そしておそらく彼女のような作家は今後も出てこないであろう。
彼女は作家としても、一人の人間としても、強烈な「華」を持った存在だった。
わしが彼女の作品を初めて読んだのは、まだ高校生のときだった。
作品のタイトルは忘れてしまったが、それはエッセイ本だった。
芸術的な彼女の文体は、まだ高校生だったわしに鮮烈な衝撃を与えた。
ただ内容は大人向けだったので、精神的にも肉体的にも未熟だったわしには「さっぱりわからん」というのが正直な感想だった。
よって彼女の作品を再び手にするのに、それから少し時が経ってしまった。
精神的にほんのちょっぴりだが成長し、難しい言葉もいくつか覚えた頃、わしはまた彼女の作品を読み始めた。
その頃、彼女は既に実に多くの作品を世に発表していた。
実際、彼女の作家活動としての期間は短かったが、その著作は100冊を超えている。
わしは片っ端から、彼女の作品を読み漁っていった。
彼女の作品はまるで音楽のようだった。文体がリズミカルで文章表現が芸術的なのだ。
楽譜を読んでいるような感覚になり、演奏を序曲から終曲まで鑑賞しているような感覚に見舞われるのである。
さすがは藝大出身といったところか。
彼女はあまたの作品を世に出し、そしてそのほとんどがベストセラーになった。
また他のどの作家よりも群を抜いて知名度も人気も高かった。
だが、そうであったのにも関わらず、彼女が賞を受賞したのはデビュー作の「情事」のみであった。
他の作品は幾度か、直木賞・芥川賞の候補にはなったものの、結局は逃してしまっている。
それは、処女作「情事」があまりにも素晴らしかったことに起因しているように思う。
これについては、作家・林真理子氏も同様に語っていることだ。
もし他の作品が受賞されるとなると、「情事」はそれ以下の作品ということになってしまう。
残念なことに、彼女は生前この処女作を越える作品を描けなかった。
他の作品が駄作というわけではない。ただ、どこかしら、「情事」の派生的な作品になってしまっているのだ。
また、商業誌的な大衆小説、いわゆる「売れる小説」というような作品が多いこともいなめない。
それは、彼女が一家の生活を支えていたことに原因があるのかもしれない。
彼女には、いつまでも日本になじめないイギリス人の夫と当時では珍しかったハーフの娘3人がいた。
彼女は彼らを養わなければならなかったのである。
彼女にとって小説を書くという行為は、「情事」以外は全て生活するための手段になってしまっていたのだろう。
だから、「情事」には感じることのできた読者の心を震わす作家魂が、他の作品にはないのだ。
おそらく、このことは本人も自覚していたように思われる。
彼女は自身のエッセイの中で「そろそろ隠居してたっぷり時間をかけて大作を書きたい」と語っている。
しかし、そうなる前に、彼女はこの世を去ってしまった。
「情事」を超える作品は彼女とともに、天に昇ってしまったのである。
とまれ、彼女の存在と作品、そしてその生き方は多くの人々に影響を与えた。
今現在活躍している作家達にもしかりである。小池真理子氏・林真理子氏等。(両者とも直木賞受賞作家)
また彼女の人生それ自体が小説のようであった。
藝大を卒業しながらも音楽家への道は辿らず作家になった氏。
当時では珍しかったイギリス人と国際結婚をし、三人の娘の母親となった氏。
カナダのバンクーバーの島を購入し、そこの主となった氏。
美しい南の楽園・与論島に別荘をたて、そこで永眠した氏。
彼女の生き方に憧憬を持たない女性はいないであろう。
そんな彼女の存在と作品が忘れ去られてしまっていくのは、たまらく悲しいことだ。
今尚強烈な印象を残す彼女の作品を、また書店に飾ってほしいものである。
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