『死にぞこないの青』 乙一   (幻冬舎文庫2001年10月25日発行 書き下ろし作品)

 

僕はこの教室における下層階級なのだと思う。


「僕はとにかく怖がりで、いろいろなことにいつもびくびくしていた」

この「死にぞこないの青」という恐ろしいタイトルの作品はこのような冒頭で始まる。

この”怖がり”で”いつもいろいろなことにびくびくしていた”主人公の名はマサオ。

この春小学五年生になる気の弱い少年である。

物語はこの少年が新しい学年になったとき、新しく赴任してきた”教師”という職業にはじめて就いた青年が担任になったところから展開する。

この若い教師の名は羽田という。

若い頃サッカー少年だったというこの教師は快活で溌剌としており、着任早々生徒たちの人気者になり、そして生徒たちの父兄から人望を集めた。

本編の主人公であるマサオもこの教師を好きになった。

子供心にもっと先生と仲良くなりたい、話がたくさんしたいと思うのだが、彼の引っ込み思案な性格がそうはさせてくれなかった。

 

そうして新任の教師との距離を考えあぐねていたとき、ある事件が起こった。

クラス内で生き物係りを決める際に、マサオは周囲を誤解させる言動をとってしまったのだ。

つまりみながなりたがってる係に自分が出し抜いてなったという。

完全な誤解だったのだが、人見知りの激しいマサオはそれを皆に上手く説明することができなかった。

そしてマサオをズルをしてその係についたいう観念が周囲に定着してしまった。

そのためマサオは羽田先生から生き物係を剥奪され、代わりに苦手な人前に出なければならない体育係にさせれてしまったのだ。

そしてこの事件以降、先生もクラスメートも何故かよそよそしくなってしまった。

その一方で羽田先生の評判も落ちてきた。

就業チャイムが鳴っているのに授業を続けたり、成績の悪い生徒の家へ電話したりと、教師として当然の行為をしているのだが、それが生徒たちの目には悪に映った。

彼への不平不満がつのるようになったのである。

そうした状況の中、羽田先生はマサオにだけ奇妙な言動をとるようになった。

何故かマサオにだけ嫌なことを押し付けたり、注意したりするのだ。

他の人だっているのに、「ゴミを捨ててきなさい」と命じたり、「ちゃんと掃除しなさい」と叱ったりするのだ。

そのときの彼の心情はこう描写されている。

「叱られることが多くなった。それがどうしてなのかわからなかった。気のせいだと思いたかったが、日を追うごとに、それは確信に変わっていった」

「不安だった。先生は怒鳴り声を上げて怒るわけじゃなかったけど怖かった。羽田先生は僕が何か失敗するのを待ち構えており、ついに僕がちょっとしたミスした瞬間、ほら見たことかとそこをつつくのである」

羽田先生のマサオへの集中攻撃はだんだんとエスカレートしていった。

そしてそうすることで羽田先生に向けられていた不満は失せていったのである。

「不思議なことに、そうすることでみんなの抱いていた先生への不満は消えた。先生が毎日、僕の行った失敗ばかりを話して聞かせるから、先生が誰かを叱ったとしても、僕ほどだめな子はいないとみんなは考えるようになった」

「先生に不満を抱くものはいなくなった。勉強しなくてはいけないのが、すべて僕のせいだとみんなはかんがえるようになった」

羽田先生への怒りが全てマサオに向けられるようになった。

そしてマサオはクラスの中でも浮いた存在になっていった。

 

そんな中、マサオの前に”アオ”が出現した。

”アオ”はマサオが勝手につけた名称である。

何故”アオ”なのかというと、実際、その子は青かったのである。

最初に”アオ”を見たとき、すぐ彼はどこかにいなくなってしまった。

しかしその後、何度もマサオの視界に現れ出るようになった。

しかも”アオ”は自分以外にその姿は見えないらしいのだ。

「アオは異様な格好をしている。それはほとんど狂気じみていて、僕はそれに気づいたとき、あまりの気持ち悪さから悲鳴を上げた」

「顔が青いというのは、病気で顔色が悪いというのではなかった。文字通り肌が真っ青だったのだ。まるで絵の具で塗りたくられたようである。また顔は傷だらけだった。縦横に傷跡が走り、それはナイフで切られたようだった」

「片耳と頭髪がなかった。だれかに殺ぎ落とされたようである。あるべき場所は、つるつるの、ただの皮膚である」

「右目は塞がっていた。どうやら瞼を接着剤でくっつけられているにちがいなかった。アオは右目を開けたがっているように見えたが、接着された皮膚が引っ張られ、顔は奇妙に歪んだ」

「唇に紐が通されていた。まるで靴紐のように、上の唇と下の唇に穴を開けて縫われている。そのために口を開けられず、呼吸はおそらく鼻で行っているのだろう」

「上半身にはおかしな服を着せられていた。それが拘束服という名前の服であることを僕は知っていた。・・・アオが着ていたのはそれだった。両腕がすっかり動かせない格好である」

「下はブリーフだけである。二本のあきらかに栄養が足りない干からびた細い足で、よろよろと地面にたっていた」

「開いているほうの目だけで、じっと見ていた。そこから涙が流れていることもあった。時々、怒りで真っ赤になっていた。それはほとんど血で染まったような赤色だった」

そんな奇怪な現実離れした姿の”アオ”が何故マサオの前に出現したのか。

それはマサオ本人にもわからなかった。

”アオ”はどこにでも現れた。

授業中にも、学校の中や外にも、マサオは彼の姿を見た。

 

そうした中、クラス内ではますます孤立していくマサオ。

羽田先生は相変わらずマサオに対して不満ばかり言う。

気弱なマサオはそれも自分が皆より劣っているせいだと思っていた。

また先生があまり出来のよくない自分を嫌っているせいだとも考えた。

しかしある日マサオは気がついた。

それは羽田先生が作ったルールだということに。

きっかけは日本史の授業だった。

そこでマサオは、江戸時代、「えた」や「ひにん」という存在がいたということを知った。

それは民衆の不満をぶつけることで彼らを支配しようとした意図の、特別につくられた最下層の身分の人間たちだった。

「僕は授業中、そのことを聞いて恐ろしくなった。そして、このようなルールを作らなくては不安を拭い去ることのできない人間、不満を解消できない人間について考えた。どうして世界はこうなっているのだろう。

生きていく上でいろいろなことに恐怖し、不安を抱いて、自分を守ろうとする。がたがた震える感情を安心させるために、だれかを笑い者にするんだ」

「僕はこの教室における下層階級なのだと思う」

「みんなの不満は全て僕に向けられるから、先生は大丈夫。クラスの批判を受けずに評判のいいままでいられる」

「先生に怒られるのはいつも僕だから、みんなは大丈夫。叱られて泣き出すこともない。だれよりも劣っているだめな子供がいるのだからプライドは傷つかない」

「クラスで一番身分が低いのはみんなはっきりと口にしないが、僕だということは共通の理解なのだ」

「僕が最下層であることを、みんなは当然だと思っているようだった」

 

羽田先生のマサオへの集中攻撃は一向にやまない。

耐え切れなくなったマサオは「どうして自分ばかり叱るのか」と言う問いを羽田先生についにぶつける。

この問いに激高した羽田先生はマサオを誰もいない理科室に連れ込み、「自分は悪い子です」という言葉を無理矢理何度もマサオを口から言わせた。

無理強いとはいえ、己の口から発した言葉により、それはマサオの中に刷り込まれてしまう。

この事件以降、マサオの感情は麻痺してしまった。

「理科室でのこと以来、僕は何もかも少しだけ楽になった気がした。それは傷口の上に薄い皮膚ができて痛みが和らぐ気持ちだった」

「いくら先生に叱られても、失敗して笑われても、以前のように絶望して呼吸できないほどの困惑に襲われるわけではなくなった。それは自分の心が強くなり、周囲の視線を気にしなくなったというようなことでは決してなかった」

「自分はもともとできそこないで、何をやらせてもうまくいかない人間なのだから、叱られ、笑われることは当たり前だと諦めることができたのだ。

心の中は乾燥して吹けば飛ぶような灰となり、僕は以前のようにあまり考えなくなった気がする」

「不思議と怒りなどはわいてこなかった。何かを押しつけられるのになれてしまっていた」

「教室での僕の存在はすっかり定まっていた。すでに僕はクラスの生徒ではなくなっていた。むしろ、ゴミ箱のようなものだった。いれるのは普通のゴミではない。もっと形のないものだった。

それは、どこの教室にも必ずある、先生や生徒への不満、だれかに与えるべき罰則といったものだ」

「羽田先生は、みんなに与えなくてはならない勉強の課題を、まるで僕ひとりのせいでしかたなく与えているかのように振舞った。クラスのみんなは、本来、先生に向けられる不満を僕に向けた」

「しかし理科室のことがあって以来、僕の中に不満というものは不思議と少なくなっている。まるで襲われる羊のように僕はただすべてを受け入れてしまうようになっていた」

「僕の感情は死んでしまったのかもしれないと思う。しかしそれにしては常に何かを怖がっているところがあり、それを考えるとまだ人形のように何も考えていないというわけではないのだろう」

 

羽田先生は誰かが失敗しても、常にその言い訳にマサオの名前を出した。

失敗した本人ではなく、なぜかマサオを叱るのだ。

それが羽田先生の、マサオのいるクラスのルールになってしまっていた。

「みんなは、羽田先生のそういった遊びに気づいていただろうし、それをわくわくしながら見物しているように思えた。それが悪いことだとは誰も思っていなかった。僕自身世界の法則のように思えていた。

だから、だれかが他のクラスの先生に言いつけるといったことは考えなかった。これは悲しむべきことではなく、クラスにおける係決めと同じ、クラス特有のルールなのだから」

「僕はこういう係になっただけなのだ。つまり、バランス係。クラスのバランスをとるためだけに存在する、生贄のような係だ」

「みんなよりも地位の低い子だから、みんなが僕と話をしないのは当たり前だったし、起こられるのも当然なのだ。みんなが『自分よりも手のつけられないほど劣った子がいる』と意識することで、

五年生の教室という世界は円滑に機能し、何も不満などは起こらないという仕組みなのだ。それが、教室の中だけに存在する世界の法則である」

こうした外には決して漏れることのない学校の中のルールは完全といっていいほど定着してしまった。

マサオ本人が傷つきながらも諦念の域に達してしまったのである。

そして”アオ”。”アオ”もいつの間にか姿を見せなくなってしまった。

それはこれから起こる恐ろしい予兆だった。

 

時は一学期末の七月に入った。

いまや教室ではマサオが最下層の人間という考えがすっかり定着してしまっていた。

だが、マサオの中では変化が始まっていた。それは自我の芽生えだった。

失われてしまったと思われていた感覚が痛みとともに蘇ってきたのである。

「先生は間違っているんだ。こんなことがあっていいはずない。どうして僕はそのことに気づかなかったんだろう。これまで考えもしなかった。

それとも、心の奥底で薄々感じていたのかもしれない。でもはっきりとそう思うことはしなかった」

「でも、もういやだ。みんなの視線に怯えて過ごすことから逃れたい」

「学校でひどいことを言われても、僕はそれを抵抗なく受け入れるようになっていた。それはなんて恐ろしいことだろう。今、はじめてその恐怖を知る。先生の言ったことが世界の摂理だと思い込み、僕やみんなはそれに従っていた。

生徒の中に階層があって、僕はその一番下にいる。そして何もかも悪いことは押しつけられている」

「でも、それはちがうのだ。階層だなんて、そんなものがあっていいはずない。先生を含めたクラス全員の不満を押し付ける役目なんて、存在してはいけないのだ。

それに気づいて疑問を持つまで、どうしてこんなに時間がかかったのかわからない」

そうして羽田先生のしている”悪”に気づいたマサオの前に”アオ”が再び現れた。

マサオの「君は僕なのか」という問いに、”アオ”は肯定する。

そしてマサオと一体化し、彼をいじめようとした同級生を返り討ちしてしまうのだ。

マサオが怪我をさせた同級生を羽田先生は例のごとくかばう。

マサオはいじめれたのをやり返しただけで、正当防衛なのだが、羽田先生はマサオの言い分を一向に聞き入れなかった。

そして「お前が悪いんだ」と決めつけ、今度はやはり誰もいない家庭科室に連れ込み、殴る蹴るの暴行を加えたのである。

そして「みんなには階段で転んだと言え」と虚偽の強制までさせたのだ。

”アオ”はささやく。「先生を殺せ」、と。

 

その決心は早くついた。一学期が終了し、夏休みにマサオは先生を殺そうとする計画を立てたのである。

先生の住所を調べ、そして実際にそこまで足を運んだ。自分と一体化した”アオ”とともに。

羽田先生はアパートで一人暮らしをしていた。

それをマサオと”アオ”は確認し、留守を見計らって彼の部屋に入り込んだ。

そこで飲み物の中に毒物を混入して先生を殺すつもりだったのである。

だが、それはできなかった。

予想外にも先生が早く家に帰ってきてしまったからである。

ここより教師と生徒の凄まじい死闘が始まる。

 

まず羽田先生は部屋にいるはずのないマサオを見て、強くぶった。

そのときの反動でマサオは倒れ、気絶してしまう。

「部屋の中にいた僕を見て、先生はこの世に存在しないものを見たという表情をした。しかし僕の意図が復讐であることを、すぐに理解したのだろう」

羽田先生は気絶したマサオの手足を縛って風呂場に閉じ込めた。

意識の戻ったマサオに”アオ”はたたみかけるようにして言った。

「あいつは、心のどこかで恐れていたのさ。自分がいけないことをしているのだという罪悪感、だれかがいつか自分を罰しに来るんじゃないかという不安があった。だからお前が復讐しに来たことをあいつは理解したのさ」

一晩そのままの状態で監禁されたあと、マサオは車のトランクに入れられ、山の中へ運ばれた。

先生はそこでマサオを殺して埋めるつもりだった。

それを”アオ”がマサオに素早く恐ろしい決断をさせた。

つまり殺される前に殺すのである。

マサオはトランクの中にあった先の尖った金棒を先生の首めがけて振り下ろした。

先生はこの世のものとは思えぬ悲鳴を上げた後、マサオを捕まえようとした。

マサオは鬼のような形相となった先生から逃れようとしたが、足の遅い彼は捕まってしまう。

しかし”アオ”に決断させられたマサオの決心は変わらない。

「僕はその瞬間、死んでもよかった。ただ先生に殺されることだけはいやだった。死よりもつらいことがあるのだ。そのことを僕は先生に教わった」

 

マサオは必死になって先生に体当たりする。

結果、二人は崖から滑り落ちてしまった。

二人は大怪我をするが息はまだあった。

その先生にマサオは止めを刺そうとする。

そのときの彼の心情はこう描写されている。

「殺してもいい。でも殺されてはだめなんだ。アオが僕に教えてくれた究極的なことはたぶんそれだった」

「先生にとって僕なんて、きっとただの逆らわない羊だったんだ。羊は静かに食べられて、餌になる」

「だけどそれじゃだめなんだ。なぜなら、そんな悔しいことってないのだから」

 

けれどマサオはそうしなかった。

マサオは大怪我を負いながらも、先生はその場に残して、助けを求めに暗い山道を下りて行った。

何故マサオは先生を殺さなかったのか。

本人はこう述べている。

一瞬のうちに起きたきまぐれだ、と。

殺そうとした瞬間、先生が情けない声を出したので、彼が哀れになったのだ、と。

そして”アオ”もそのときからいなくなってしまった。

 

先生とマサオは別々の救急車で同じ病院に運ばれた。

先生は4ヶ月、マサオは1週間の入院をしなければならない怪我だった。

幾日経ても”アオ”は姿を見せなかった。

しかしマサオは心の底では”アオ”は二度と現れないだろうということがわかっていた。

「・・・僕は本当はしんでしまって、別の人間に生まれ変わったんじゃないだろうか。・・・これまでアオとして分離していた部分は、僕の中に溶けたのだ」

果たして一体”アオ”は何者だったのだろうか?

突然マサオの前に現れ、そして消え去った奇怪な容貌をした子供。

マサオがつけた名の通り、全身が青色だった”アオ”。

マサオは”アオ”についてこう考えている。

「アオは僕の守護者のようであり、心の暗い部分が形を持ったようでもあった。そしてまた、うまく説明できないけど、『被害者』という言葉がある生物を指す名前だったら、きっとそれはアオのような生き物に違いない」

「しかし、もしも痛みを肩代わりしてこの世界に憎悪を抱く傷ついた被害者的人格が存在したら、それはきっとアオのようではないだろうか」

「もちろん、アオは僕の別人格などではないのだ。ただ僕は自分の心の一端をアオという幻として見ていたにすぎないのだ」

「もしかすると、事故で入院しているときに鏡で見た自分の顔が記憶の底に眠っていて、アオという幻の原型になったのかもしれない」

しかし、マサオは”アオ”の正体について結論を出さなかった。

マサオにとって、今現在の最悪の状態から脱出ができたということの方がはるか大事であったからだ。

 

二学期になり、新しい先生がやって来た。

まだ入院している羽田先生の代理となる臨時の教師である。

羽田先生と同じく、大学を出たばかりの教師であったが、羽田先生と違い、周囲の評価は芳しくなかった。

動作にきびきびしたところがなく、何をやらせても失敗ばかりするのである。

一時的とはいえ羽田先生がいなくなり、彼からの集中攻撃もなくなってクラスから浮いた存在ではなくなったマサオは、この新任の女教師に疑問をぶつける。

「まわりの人が自分をどう評価しているか、怖くないんですか」、と。

その問いに対し、女教師は考え込んで「がんばってる結果がこれなんだからしょうがないでしょ」と、答えた。

そしてこの答えを聞いたマサオは、以前のように自分もしくは誰かが生贄の羊になることはないと、安心して物語は完結するのである。

「僕は被害者だったけど、羽田先生の気持ちもわかる。生きている限りみんなそうなんだ。いつも誰かに見られていて、点数をつけられる。恥をかきたくないし、よく見られたい。

誉められるとうれしいけど、失敗すると笑われそうで心配になる。きっとみんな他人にどう思われているのかを考えて、怖がったり不安になったりするんだ」


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