『プラナリア』 山本文緒  (第124回直木賞受賞作品 初出1999年7月号「小説現代」)

 

次に生まれてくる時はプラナリアに。


”プラナリア”とは三岐腸目のプラナリア科に属する扁形動物の総称である。

体は扁平で、口は覆面中央にあり、体長は20〜30ミリメートルある。

渓流などに住んでいて、再生の実験などによく使われたりする。

そんな”プラナリア”になりたいというのが本編の主人公である。

彼女は20代半ばの春香という名の無職の女性だ。

耳にするのも珍しいその生物に何故彼女は生まれ変わりたいのか。

その理由はこうである。

「『きれいな小川の石の下にいて、別に可愛くないから注目されないで何も考えずに生きていられるんですよ。しかも切られても再生しちゃうなんて、死ぬ恐怖がないってことですよね。セックスしなくても、放っておくと育って二匹に分かれるって簡単でいいし』」

主人公の春香は乳ガンを患っていた。

そのため上記に記載しているような理由で、切っても死なず、それどころか分裂してそのまま状態で生きることができる生命力の強い生き物のプラナリアになりたいと思っているのである。

彼女は事あるごとにこの話を引き合いに出す。

つまり自分は乳ガンだから、いっそプラナリアになりたいということを。

そしてそんな彼女を恋人の豹介はいつもたしなめる。

その連続が主人公の日常であった。

 

春香が乳ガンと診断され、右胸を抉り取ったのは一昨年のことである。

常人ならば、この巨大な不幸の来襲により、失意のどん底に打ちのめされるであろう。

だが、この主人公はこの不幸な出来事に遭う以前から不遇な状況に置かれていた。

恩恵の少ない人間の上にさらなる不幸が見舞ったわけである。

「青天の霹靂と当時は感じたが、今振り返るとその言葉は当てはまらないように思う。何故ならそれまでの二十三年間、私にとって青天な日などほとんどなかったからだ。不運な私が、なるべくしてなったという方が当たっている気がする。

ツイていない人間はどこまでいってもツイていない」

唯一の救いは恋人の豹介が側にいてくれることだった。たとえ主人公が情緒不安定になって壊れて暴れても、彼は決して去っていくことはなかったからである。

とはいえ、主人公が不遇な状況にいることは変わりなく、無為に過ぎていくだけの日々は相変わらずのままだった。

右胸切除から二年の月日が経っている。

「本当はもうがん騒動にピリオドを打たなければならないことは、私にも分かっている」のだ。

 

彼女はがんになる前も、デブだった上、性格上にも問題があったため、そのとりまく環境は決して幸福なものではなかった。

友人の一人にこの苦しい手術を乗り越えたら、自身も何か変わることができると言われたのだが、そんなことは全くなかった。

周囲の人間からは重い病とということで、優しく接してもらい、手術もなんとか乗り越えたが、彼女の身辺には何の変化もなかったのである。

つまり健康のありがたみがわかったり、生きることの大切さや家族愛に目覚めたというようなTVや映画で起こるようなことは結局彼女の身の上には起こらなかったのだ。

そんな彼女でも社会復帰を一度は試みた。

病を治すために三ヶ月休んだ職場に再復帰したのである。

だがすぐに退職してしまった。

「会社を辞めたのは、ただ単にやる気をなくしたからだ。何もかもが面倒くさかった。生きてること自体が面倒くさかったが、自分で死ぬのも面倒くさかった。だったら、もう病院なんか行かずに、がん再発で死ねばいいんじゃないかと思うが、正直言ってそれが一番怖かった。

矛盾している。私は矛盾している自分に疲れ果てた」

 

そんな無気力な自分を持て余している毎日を送る春香。

ある日それを変える出来事が起こった。

入院しているときに知り合った女性と外で再会したのである。

その女性の名は永瀬。

春香より一つ年上のデパートの和菓子売り場に勤める美しい女性である。

再会をきっかけに、永瀬は春香に自分の店で働かないという話を持ちかけてきた。

そして春香はそれを承諾したのである。

全く違う環境にいる人間とはいえ、病を患い、同じ病院に入院した者同士、自分の気持ちをわかってくれるのではないかという淡い期待を持ったのだ。

しかしここでも駄目だった。

ほとんどない気力をひきしぼって社会復帰を試みたのにも関わらず、無気力な日々からの脱出は不成功に終わったのである。

職場には彼女の大嫌いな噂好きのおばさんがうじゃうじゃいたのである。

面白そうに他人ごとと思い、病気のことを根掘り葉掘り聞いてくるおばさんたち。

そしてほとほとうんざりしているところに彼女はさらに追い討ちをかけられてしまう。

自分と同じ境遇に陥り、ほんの少しでも気持ちを共有できると思っていた永瀬から裏切られてしまうのである。

今度生まれてくるときはプラナリアになりたいと春香は永瀬に話す。

しかし永瀬はこういうのだ。「やっぱり、次生まれてくる時も私は私がいいな」と。

残酷な言葉である。

春香が望んでいたのは自分の感情に同調してくれる言葉だったのである。

すなわち「私もプラナリアになりたい」という。

春香は自分と比べてほしいものは何でも手にしている彼女にだからこそ、そう思ってほしかったのである。

「全身から喜びがしゅるしゅると抜けていく気がした。それはよほど今までの人生に恵まれてきたか、そうでなければ、ただのきれいごとに私には聞こえた。そして『うさんくささ』を永瀬さんに対して感じてしまった自分に嫌悪感が襲ってくる。

どうして私はこんなにひねくれているのだろう。人には人の考えが、自分とは別にあるのだと考えられないのだろう」

「少しくらい違和感があってもこの人はいい人で、私の憧れの人であることには変わらない。まったく違和感を感じない他人などこの世に存在するわけがないのだからと、私は一人になった夜道を歩きながら自分に言い聞かせた。

こんなことで、へこんではいけないと」

 

かろうじて理性を保っている春香の精神に永瀬はさらにダメージを与えた。

今まで直視することを避けていた闘病の書物や写真集などを彼女の元に送りつけたのである。

春香はこれによりわずかな生きる力も完全に失ってしまった。

無為な日々を脱却できると思っていたための一筋の光明が消えてしまったのである。

「脱力した。私は床に散らばった本と紙の束の中にぺったりと座り放心していた。こういう場合、感謝の気持ちを持たなければならないのは分かっていた」

「・・・人の好意の表しかたはいろいろで、理解し感謝していなければいけない。・・・でも、私の中にふつふつと湧き上がる感情は感謝とは正反対のものだった。いけない、と思いつつも自分で自分の感情がコントロールできない。

・・・彼女に会ってこの感情をぶつけてやりたい衝動にかられた。けれど、かろうじて私は堪えた。・・・幸い誰もいなかったので子供のように大きな声を上げて気が済むまで泣き、そうしたら程よく疲れて、ぐっすり眠ることができた」

その後彼女は店を二度無断欠勤してしまう。

「どうしても行く気になれず、せめて仮病でも何でも使って適当に電話をしておけばよかったのに、それさえする気になれなかったのだ。頭は冷えたが、それと同時に無理して出していたやる気のリバウンドがきて、何もかも億劫だった」

 

元の生活状態に戻ってしまった春香。

いや、絶望を味わった分、その重みはさらに増したのである。

そした彼女の心情や行動に理解できない永瀬は、彼女のところへ電話をかけ責め立てる。

その永瀬に春香は淡々とした小馬鹿にしたような口調で応えるだけだった。

そして「でも春香ちゃん、アイデンティティだって言ってたじゃない。それならどうして調べようとしないの?」という永瀬の問い(おそらくは読者も知りたがっていた)に春香は声に出さず心の中で応えた。

「対峙するのがつらいから」と。

そんな春香に待っているのは再び無明の荒野を歩くような無味乾燥な日々を送る生活だけであった。そして終末はこうして括られる。

「私はもう何も言わずに携帯の電話を切った。豹介の隣の席に戻ろうと踏み出した足が震えていたが、なんとかみんなのテーブルに戻ると、ちょうど話題が途切れていたらしく、誰かが『春香さんは何でプーなんですか?働かないんですか?』と明るく聞いてきた。

『うん。私、乳がんだから』座るか座らないかのうちに私がそう言ったので、豹介が思い切りこちらを睨んだ」

 


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