『地獄変』 芥川龍之介

 

だから来い。奈落へ来い。奈落には――己の娘が待っている


「地獄変」とは善をすすめ悪を懲らしめるために、地獄で苦しめられる亡者たちの様子を描いた地獄変相図のことである。

日本の近代作家・芥川龍之介はこれを題材にした短編小説を書いた。

その物語のあらましはこうである。

 

時は平安。鬼才の絵師・良秀はかねてより仕える主君に「地獄変」を描くことを命じられる。

良秀は自分は見たものでしか描くことはできないといい、自分の目の前で女人を乗せた牛車を焼いてほしいと請う。

主君はそれを承知し、良秀の前で約束通り女人を乗せた牛車に火をかけた。

だが牛車に乗っていた女人は実は良秀の娘だった・・・。

 

この恐ろしい物語の主格をなす登場人物は、絵師の良秀とその良秀が仕える堀川の大殿、そして良秀の娘の三人である。

この三人を主として物語は展開していく。

語り手となるのは堀川の大殿に仕える奉公人である。

この名もなき奉公人が、今は堀川の大殿の元にある「地獄変」の屏風が出来上がるまでの過程を淡々と綴っていくのだ。

 

そして語りの中心となる「地獄変」の屏風は、この世における究極の芸術作として登場する。

聞き手は実際にそれを目にすることができないが、語り手の言葉からそれがどれほどの逸品であるかを瞬時に理解する。

「地獄変の屏風と申しますと、私はもうあの恐ろしい画面の景色がありありと眼の前へ浮かんでくるような気が致します」

「これを見るものの耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝わって来るかと疑うほど、入神の出来栄えでございました」

 

この「地獄変」を描いたのは、登場人物の一人である当代きっての絵師・良秀である。

良秀は語り手に言わせると、姿も心も「卑しい人間」で、かつ自分の画才を鼻にかける「傲慢」で「高慢」な誰からも嫌われる男だった。

そして画のことになると、さらに薄気味悪くなり、あまつさえ気が違えたとも思われるようなことをする奇怪な人物なのである。

語り途中にはその気違いじみた良秀の行いが語られるが、ここではあえてそれを省くことにする。

ただ正気の人間であれば到底はできないと思えるような人道に外れた恐ろしいことを、画のためなら平気でやってのけたとだけ述べておこう。

そしてその怪物的ともいえる男にも唯一人間らしい点があった。いわばそれは彼を常の世界とをつなげている唯一の繋がりでもあったのだ。

 

それは登場人物のうちの一人である彼の娘である。この娘は年若いのにもかかわらず美しく聡明であり、大変な親思いであった。

良秀はことのほかこの娘を溺愛した。

それは親が子にかける愛情というよりは、一人の男性が女性に向ける愛情に近いものだった。

この娘は大殿の屋敷に侍女として仕えていた。美しい娘は大殿に目をかけられるが、良秀は当然それが気に入らない。

なんとかして大殿から娘を遠ざけようとするが、大殿は娘を決して自分の側から離そうとはしなかった。

 

この堀川の大殿は語り手によると、並々の人間とは生まれたときから違う「権者の再来のようなお方」であった。

権者とは神仏が衆生を救うために、人間の姿となって現れたもののことである。

良秀とは天と地ほども違う語られようである。

だが語り手の語りを聞いていくうちに、その言葉のふしぶしから彼が実は良秀同様かあるいはそれ以上の「傲慢」な男だということに気づいていく。

実際の彼は自分の意に従わぬもの対しては情け容赦がなく、冷酷非道な仕打ちをも平気で行うことができる無慈悲な心の持ち主であったのだ。

物語当初に語られている彼の神話的な逸話は全て彼のそうした性質を覆い隠すものということもさらには気づいていく。

その逸話が大げさであれば大げさであるほど、彼が嘘で塗り固められた偽善的な支配者であることがわかってくるのだ。

 

良秀の娘に懸想した大殿はなんとかして娘を自分の意に従わせようとするが、娘は一向に言うことを聞かない。

業腹煮え立った大殿は良秀が女を牛車に乗せて焼いてほしいという申し出をこれ幸いとして、ここぞとばかりに良秀の娘を焼き殺してしまうのである。

眼の前で娘の乗った牛車に火をかけられた良秀は当然のごとく愕然とする。

 

語り部はそのときの良秀の様子をこう語っている。

「良秀のその時の顔つきは、今でも私は忘れません。思わず知らず車の方へ駈け寄ろうとしたあの男は、火が燃え上がると同時に、足を止めて、やはり手を差し伸ばしたまま、食い入るばかりの眼つきをして、車をつつむ焔煙を吸いつけられたようにもよく見えます。が、その大きく見開いた眼の中といい、引きゆがめた唇のあたりといい、あるいは絶えず引き攣っている頬の肉といい、良秀の心にこもごも往来する恐れと悲しみと驚きとは、歴々と顔に描かれていました。首を刎ねられる前の盗人でもないしは十王の庁へ引き出された、十逆五悪の罪人でも、ああまで苦しそうな顔はいたしますまい」

 

しかし良秀の人間的な感情はすぐに消え失せる。

彼は当初こそ驚嘆していたが、焔が燃え盛り、娘が苦しみだすとなんと立ち止まって腕を組んでその死に行くさまを冷然と眺めはじめるのである。

地獄の業火を目の当たりにし、彼の内にある生来の芸術家としての気質が支配しはじめたのである。

「あのさっきまで地獄の責苦に悩んでいたような良秀は、今は言いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮かべながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、佇んでいるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映っていないようなのでございます。ただ美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――そういう景色に見えました」

 

「しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しそうに眺めていた、そればかりではございません。その時の良秀には、なぜか人間とは思われない、夢に見る獅子王の怒りに似た怪しげな厳かさがございました。でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまわる数の知れない夜鳥でさえ、気のせいか良秀の揉烏帽子のまわりへは、近づかなかったようでございます。おそらくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光のごとく懸かっている、不可思議な威厳が見えたのでございましょう」

 

「鳥でさえそうでございます。まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震えるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るように、眼も離さず、良秀を見つめました。空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪われて、立ちすくんでいる良秀と――なんという荘厳、なんという歓喜でございましょう」

 

このとき良秀は芸術家として頂点を極めたのである。

凡人には見えないもの、聞こえないもの、そして感じられないものを彼は掴み取ったのである。

感覚という感覚が研ぎ澄まされてそれが絶頂にまで高まり、彼をこの世ならざる世界へと導いたのである。

それはまさしく神仏の世界――この俗世に生を受けている間は決してたどり着けない世界であった。

そこに彼はこの世にいながら行き着いたのである。語り部らは良秀を通して確かにその世界をかいま見ている。

だからこそそのときの良秀がこのように神仏のごとく描かれているのだ。彼の頭には神仏のみが持つ光輪がかかっているのである。

 

このことからわかるように、彼は生まれながらの「芸術家」であった。

凡人には理解し難い、天賦の才を持って生まれた男であったのだ。

それゆえ凡人には彼のしていることは全く理解できず、彼の行動は奇異なものとして他人に写る。

あまつさえ画のためには自分の娘をも見殺しにする「人面獣心の曲者」とまで言われてしまうのだ。

もともと悪かった良秀の評判はこの事件をきっかけにし、さらに悪くなる。

だがそれも「地獄変」が完成するまでであった。

「地獄変」が完成してからは、日頃から絶えなかった良秀の悪い噂がぴたりとやんでしまうのである。

それほどこの「地獄変」は人間ばなれした作品だったのだ。

それはまさしく神がかった出来栄えだった。前述したが、それは「入神のごとく――」と表現されている。

自分の意にならなかった二人を懲らしめるために恐ろしい算段を目論んだ大殿にいたっては、これを見た瞬間口から泡を吹いて「でかしおった」との一言だけしか言えなかった。

 

語り手は語る。

「誰でもあの屏風を見るものは、いかに日頃良秀を憎く思っているにせよ、不可思議に厳かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦剣権を如実に感じるからでもございましょうか」

 

地獄編を完成させた良秀は、その後自ら命を絶つ。

語り部は一人娘を先立てた悲しみに絶えられなかったからだと語るが、聞き手はそうでないことは理解している。

語り手はあくまでも凡夫なのだ。

人の世ならざるものを見、芸術家としてそれを極めた良秀は、もはやこれ以上の画がかけないことを悟って自らこの世を離脱したのだ。

良秀は「地獄変」を描く前からそれをわかっていた。芸術家としてこの世に生誕をし、そのすべての力を出し切った彼はもはやこの世では無用の長物なのだ。

いわば彼はこの地獄変を描くためだけにこの世に生誕をしたのだといってもいい。

彼は自身で地獄を描いたことにより、地獄へと堕ちて行ったのである。

 「いわばこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分でいつか堕ちていく地獄だったのございます。・・・・・・」

 

「地獄変」は芸術家としての業を描いた作品である。

また日本の近現代作家である中島敦がこの主題で「狐憑」という作品を描いている。

奇想天外な話を語り、村人たちを楽しませていたシャクという男が、ある日突然何も語れなくなり、無用の長物と見なされ、村人たちに殺されてあまつさえその体を食べられてしまうという話である。才が枯れてしまったがための悲劇である。そしてまた芸術家として生まれたものの悲しき宿命でもある。

 

そしてさらにはどちらもやがては存在したことすらも忘れられてしまうのである。

良秀に関しては「とうの昔誰の墓とも知れないように、苔生しているに違いありません」と描かれ、シャクに関しては「ホメロスと呼ばれた盲人(めくら)のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱ひ出すよりずつと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない」と描かれて物語は終結している。

結末の違うところはシャクは村人たちの手によってその命を奪われているが、良秀は自らその命を絶っていることだ。

 

それは文学という芸術を極め、これ以上のものは書けないと悟り、やがて世間から無用の長物とみなされることを恐れた作者が「ぼんやりとした不安」という言葉を書き残して自ら命を絶ったその姿に重ならないか。

 


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《書籍のご案内》

 

*本作品を読みたい方はこちらから

 <地獄変・邪宗門・好色・薮の中 他七篇 (岩波文庫) 著者:芥川 龍之介>

  表題作「地獄変」の他に「蜘蛛の糸」や「羅生門」ら12作が収録された作品集。

  わずか35歳で早世した天才作家の珠玉の作品をまとめた一冊でもある。

 

*関連作品はこちらから

 <李陵・山月記 (新潮文庫) 著者:中島 敦>

  「地獄変」と同様の主題である「狐憑」が収録された中島敦の作品集。代表作の「山月記」もまた収録されている。

  漢学に造詣の深い作者が書いた流麗な文体で作品群は必読。