ART POWER
Part.11
眠るジプシー女 アンリ・ルソー
アンリ・ルソーは19世紀のフランスの画家である。
といっても正式に画を学んだわけではない。
税関吏として働きながらその合間をぬって絵を描いていた日曜画家である。
また師はいなかった。ルーブル美術館に通い、模写を続け、そして独自の画風を築き上げたのだ。
そのルソーの作品を初めて見たのは何時でどの美術館のどの作品だったかは覚えていない。
気がついたら彼の作品は目につくようになり、いつのまにか心に滑り入りこんできたのである。
その彼の代表作の「眠るジプシー女」を見る機会に恵まれた。
1993年に上野の森美術館で開催された「ニューヨーク近代美術館展」に来日したのである。
本作品を知ったのは実物が先かどうかは忘れてしまったが、しっかりと自分の心を捕らえて離さなくなったのは間違いない。
画面には一人の黒人女性と一匹の雄ライオンが描かれている。
大きな胴体と鬱陶しいほどの鬣をもったライオンは、強健な四本の手足で大地を踏みしめながら、何かをささやくようにして、安らかに眠っている女性のそばに静に佇んでいる。
また、尾を中空でピンと張らせ、小さなまあるい目をしっかりと見開かせている。
無機的な姿と表情をしているのにもかかわらず、いまにも動き出しそうに感じられ、息遣いまでが聞こえてきそうだ。
しかし獰猛さは少しも感じない。
対する黒人女性は右手で長い棒を握り締めたまま、傍らに不思議な形をしたギターをおいて、横たわっている。
瞳も唇も半開き状態で、ゆったりと大地に溶け込むかのように、まどろんでいる。
その彼らを、天空に浮かぶ銀色の月が皓々と輝きながら照らし出している。
実に幻想的な情景である。
果たしてここは何処なのか?
エジプト、アラビア、アフリカでは、ない。
記憶にない世界、だけど知っている世界。
不思議な、本当に不思議な現実にはありえない光景だが、何故か胸をつかまれるような懐かしさに囚われる。
それも自分の中に流れる遺伝子レベルで。
アンリ・ルソーは幾数もの現実にはありえない光景をキャンバスに写し出してきた。
彼自身が南国へ旅行した際に見た風景を描いたと語った記録があるが実際に足を運んだことは一度もない。
図鑑や植物園等で見た自然を大きく脚色して描いたのだ。
彼は「嘘つき」だろうか?
事実だけ見ればそうだ。
しかしルソー自身は南国へ旅したのである。心で、だが。
そして脳裏に浮かんだ映像をキャンバスに描き出した。
それは人間の奥底にある「生」の原点であった。
ルソーはそれを基盤にして誰にも真似うることのできぬ唯一無二の世界を創り上げたのである。
だからこそ彼の絵は郷愁感に溢れているのだ。
目に見えるものすべてが真実とは限らない。
アンリ・ルソーが描いた世界こそが本物かもしれない。


*「眠るジプシー女」 アンリ・ルソー 1897年制作 ニューヨーク近代美術館所蔵
アンリ・ルソーの代表作品。故郷のラバル市に寄贈するが受け取りを拒否される。1923年に配管工の作業現場で発見された。

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