ART POWER Part.13 |
生誕 於巴里 藤田嗣治 | |
藤田嗣治の作品を初めて見たのは10代の終わりだった。 それは都内にある松岡美術館に足を運んだときのことだった。 現在は白金の地にあるその美術館は、当時は御成門にあった。 都心にあるとは思えぬほどこじんまりとした美術館だったが、その所蔵コレクションは圧巻だった。 ピカソ、ローランサン、シャガール、ブクローなど名だたる巨匠の名画がズラリと展示されていたのだ。 その名作群の中にあったのが藤田嗣治の「聖誕 於巴里」であった。 その絵を見たときに最初に抱いた印象は「何だ、この絵は?」という驚きだった。 本作は、タイトルから類推できるようにイエスの誕生を描いた画である。 イエスを題材にした作品はそれこそ世界中に数多存在するが、そのほとんどが荘厳で重厚な雰囲気を漂わせるイコンとしての役割を兼ねている。 本作はそれからはほど遠かった。 奇妙で奇矯なのだ。 中央には生まれたばかりのイエスが、そして観賞者からみて右にマリア、左にヨセフが描かれている。 そしてイエスをのぞきこむようにして二頭のロバがおり、マリアの背後には牛、イエスの傍らには子ヤギがいる。 聖書を下地にしたイエスの誕生のエピソードを描いた画ということは理解できた。 だが、イエスは赤子なのにその表情は成人のものだし、周囲の動物たちの顔つきは人間的で今にも人語(?)を喋り出しそうな感じである。 楳図かずお氏の画が脳裏に浮かんだ。 またムンクの作品「叫び」に見られる不気味で不穏な曲線描写が登場人物たちを取り巻いているような感覚も受けた。 実に奇怪な絵である。 なのに、何故か美しい、と感じた。 そして思った。 果たしてこの絵は日本画なのか洋画なのか。 鉛筆で描いたような細い線質と薄い水彩画の色彩は日本画に思える。 だが全体的に西洋の趣があるのだ。 作者の名前を見る。 そこには「藤田嗣治」と明記してあった。 無知な私はそのときまで藤田嗣治なる画家の存在を知らなかったのだ。 藤田嗣治(ふじた・つぐはる)。 1866年生まれの日本人フランス画家。 1905年に東京美術学校に入学し、卒業後、1913年にフランスへ渡航する。 パリのモンマルトルに居を構え、後にエコール・ド・パリと称される画家のピカソ、モディリアーニらと親交を結ぶ。 そして独自の画風を確立し、西欧画壇に君臨し、世界的な名声を得る。 第二次対戦が勃発すると日本へ帰国するが、進展のない日本画壇に失望し、終戦後はフランスへ戻る。 そして帰化し、1968年にスイスにて81歳で没。 遺体は自身が設計したフランスのランスにある「フジタ礼拝堂」におさめられた。 藤田嗣治の生涯を略して説明すると上述のようになる。 実際に彼の人生を追っていくと、原稿用紙が何枚あっても足りない。 藤田は、異国の地へ渡り、その地で画家として成功をおさめた(おそらくは)ただ一人の日本人である。 それも日本画でなく西洋画で大成したのだ。 彼は日本生まれの日本育ちの日本人である。 ほとんどの画家が、生前に認められないまま世を去っていくというのに、これはまったく驚異的な所業である。 西洋諸国に対して未明であった時代、先に留学していた先達がいたとはいえ、単独でフランスへ渡ったことだけでも豪胆な人物であることが伺いしれる。 彼は当初から脚光を浴びていたわけではない。 日本の美術学校は反りが合わなかったため成績はふるわず、結婚したばかりの妻と別れてフランスへ渡航するも食うや食わずの日を送ったこともあった。 だが、藤田はそれらの苦難を乗り越え、芸術大国で押し潰されることなく、また呑まれることもなく、日本人としての精神を失わないまま、自らの才を開花させていったのだ。 そして数多いる西洋画家を押し退け、巨匠ピカソらとともに西洋画壇に君臨し、「世界のフジタ」と称されるまでに至ったのである。 フランス人からは、「FOUFOU(お調子者)」の愛称で親しまれ、フランスで彼を知らない者はいなかったという。 芸術家らしくその女性遍歴も華やかで、彼は生涯において5度の結婚をしている。 また画業を営みながら、二つの大戦をもくぐり抜けた。 その生涯を辿ると、荒々しい偉丈夫を想像してしまうが、彼は剽軽という形容がすぐさま脳裏に浮かぶ容貌なのだ。 また一度、彼の肉声を聞いたことがあるが、声音は穏やかで、気の良い好好爺という印象を受け、幾人もの女性と恋愛遍歴を重ねてきた世界中から称賛された芸術家のイメージからはほど遠かった。 本作を観賞して以降、藤田の他の作品を数多く目にした。 世界中から大絶賛された独特の乳白色で描かれた彼の作品はどれも素晴らしかった。 異形と思えたのは本作のみで、他作品は天上美とも思えるほど秀麗だった。 そしてどれもが日本と西欧を見事に融合化していた。 本作を見て衝撃を受けたのは、日本とフランスが一体化している具象物に初めて対面したからである。 西洋と東洋の混合、それが「絵」となって見事に表現されていたのだ。 根底に日本的精神を置きながら、フランスの文化を取り入れた藤田だからこそなせる技であろう。 芸術家としての技量と感性はフランスで養われこそしたものの、藤田は日本が生み出した至高の芸術家である。 「聖誕 於巴里」は、その偉大な人物を知ることになった忘れがたき記念すべき一枚なのである。 *「聖誕 於巴里」 藤田嗣治 1918年制作 松岡美術館所蔵 |