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ベルギーを代表する画家フェリシアン・ロップスは、1833年7月7日にベルギーのナミュールで生まれました。
ブルジョワ家庭の一人息子であった彼は、恵まれた教育を受けて育ちます。
出生地にあるノートル=ダム・ド・ラ・ペ中等学校では、ラテン語と素描に際立った才能を見せ、小冊子に挿絵も描きました。
彼が15歳のときに父親が亡くなったため、叔父が後見人となります。
しかし彼は、自分の社会的階級の慣習に対して反抗心を抱いていたので、叔父との関係は悪くなり、中等学校を退学してしまいました。
彼は芸術に強く惹かれていましたが、そうした家族への配慮から、ブリュッセル自由大学法学部に籍を置きます。
その一方でアトリエ・サン=リュックでの修練を続けたのでした。
彼は年を追うごとに版画に対して熱意が強固になっていき、より多くの経験を求めて、版画、石版、エッチングに次々に取り組んでいきました。
1856年に彼は結婚し、その翌年には「フランドルの伝説」に挿絵を描きました。
そしてパリのブラックモンとジャックマールのもとでエッチングを学びます。
さらにドービニーに代わって、エッチング協会の選考委員にもなりました。
これより彼は、ベルギーとパリとで生活を送るようになります。
パリでは多くの発行人と親しく交際する機会に恵まれました。
1864年に、彼は奇才の詩人ボードレールと出会い、二人は以後互いを尊敬し合う友人同士となります。
この時からロップスの作品はボードレール好みの作風へと進化していきました。
1866年には、ボードレールのために「漂着物」の扉絵を制作します。
この時期に構想及び創作された作品群は、硫黄を含んだようなエロティックな特質で、これは象徴派の傾向を先取りするものでした。
しかしその一方で彼は、1868年にブリュッセルで「美術自由協会」にも関わり、風景画を描く写実主義の運動にも参加しています。
1874年以降、彼は最終的にパリに身を落ち着けることになりました。
妻とは離別して、数年来交際を続けていたオレリーとレオンティーヌ・デュリック姉妹のもとで生活を送るようになります。
パリで彼は挿絵画家として、幾人かの高名な作家から仕事を得ました。
1878年に彼は「娼婦政治家」と「聖アントワーヌの誘惑」の2点の大作を制作します。
しかしこの2点の作品は、猛烈な批判を浴びてしまいました。
けれど、ブリュッセルの芸術の庇護者であった高名な弁護士エドモン・ピカールからは支持されます。
1882年に彼は、後に「薔薇十字会」「テンプル騎士団」「聖杯騎士団」の創設者となる作家ジョゼファン・ペラダンと知り合います。
ロップスの悪魔的なインスピレーションに魅惑されたペラダンはこう語りました。
「私はあなたの堂々たるエッチングを見ました。その中にある背徳というものが、『背徳概論』の準備をしていた私にとってあまりに強烈に迫ってきて、
あなたの並外れた才能に夢中になってしまったのです。」
ロップスは彼の著書である『至高の悪徳』の扉絵のために、挿絵『頽廃の情熱的研究』を描きました。
この作品はポスターにされて、ブリュッセルで成功を収めます。
以降、彼は反教権主義の悪行の数々によるローマ教会の堕落を描いた挿絵を制作していきました。
しかしこれらの作品群は、当然のごとく宗教に対して挑発的と受け取られてしまいます。
1888年には、ロドルフ・ダルザンの著書「キリストの愛人」のために扉絵を制作しますが、この作品はペラダンからも「冒涜的である」と批判されました。
同時代人の目には彼は「ポルノ作家」として映ってしまったのです。
ロップスはあれ程自分のことを尊敬してくれたペラダンの無理解に深く傷つきました。
しかし晩年になると、多くの展覧会が開催されるようになります。
「二十人会」や「自由美学」でも展覧会が、ドゥルオ館では回顧展が開かれました。
これらにより、ロップスの芸術性は正当に認められるようになったのです。
けれど既にそのとき彼は、日に日に衰弱していく健康状態にありました。
彼はパリから離れ、エソンヌに移り住み、そこで制作を続けます。
そして1898年8月23日、彼はその地でデリュック姉妹や娘のカミーユ、そして親しい友人らに囲まれて息をひきとりました。
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