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名画「夜警」を描いたことで有名なレンブラントはオランダを代表する画家の一人です。
彼は17世紀の中流階級が台頭してきた時代に粉屋の9番目の息子として誕生しました。
中流階級が好む肖像画を多く描いた彼は、創作当時からその名が知れ渡り高い評価を得ていました。
彼が26歳のときにアムステルダムで描いた作品「テュルプ博士の解剖学講義」は絶賛され、その地位は不動のものとなります。
この作品以降、彼に肖像画の依頼が殺到するようになりました。
そしてその後、彼は裕福な家系の娘サスキアと婚姻を結び、社会的にも経済的にも恵まれた地位につき人生の絶世期を迎えます。
ですが運命は過酷です。この後の彼は下降の一路を辿ります。
まずはサスキアとの間にもうけた子供たちの死でした。
4人の子供のうちに彼は3人に先立たれてしまいます。
そして4人目の子供がまだ1歳にならないうちに今度は愛妻のサスキアがこの世を去ってしまうのです。
私生活と同様に創作活動も悪化していきました。
1642年に完成したレンブラントの代表作である「夜警」が不興を買ってしまうのです。
その理由は注文主の意図に合った作品ではなかったからです。そのため注文主から訴訟まで起こされてしまいました。
この作品以降、彼は注文主に対する絵画制作ではなく、自己の芸術性を求める制作活動に取り組んでいきます。
当然のごとく絵画の注文数も減り、経済生活は悪化していきました。
それに追い討ちをかけるように国の経済は不況に陥ります。
イギリスとの戦争に負けた故国はかつてないほどの不景気に見舞われ、ただでさえ減っていた絵画の注文数は激減してしまうのです。
また彼の私生活も大荒れに荒れました。
彼を廻って二人の女性が凄まじい争いを起こしてしまうのです。
1656年についに彼は破産します。
しかしこのような苦境に見舞われながらも彼の芸術性は少しも衰えることはありませんでした。
それどころかますます深みが増して高まっていったのです。
破産後は愛人ヘンドリッチェとサスキアとの間での生き残った唯一の息子に支えられながら創作活動を続けていきます。
ですがこの後流行したペストによって二人にも先立たれてしまいます。
ついに一人になってしまった彼は、孤独な晩年を向かえ1669年にこの世を去ります。
オランダ絵画の絶世を極めた彼の遺体は共同墓地へ葬られました。
彼は自分の死の直前まで己の求める芸術性をめざしていたといわれています。
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