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短い生涯において多くの聖母子画を残し「聖母の画家」としての異名を持ったラファエロは盛期ルネサンス三大巨匠の一人とされています。
彼はダ・ヴィンチやミケランジェロと並んで西洋絵画の古典として後の美術史上に大きな影響を与えました。
彼が存命した時代から500年近い月日が流れた今日でさえ、彼の残した偉大な業績とその名は世界各地に伝えられています。
彼は画家でもあり建築家でもありました。それまでの芸術手法を統合して確立した総合芸術の天才だったのです。
彼はその持ち前の天賦の才を余すことなく発揮して、若くして異例の富と権力を手にします。
そしてまた盛期ルネサンスに大きな貢献を果たしました。後に彼はこう語っています。
「我らの時代こそ、かつて最も偉大だった古代ギリシャの時代と肩を並べるほど素晴らしい時代なのだ」
そんな彼はわずか37歳でその生涯を終えてしまいます。
若くして亡くなった世紀の天才芸術家ラファエロは一体どのような人物でどのような生涯を送ったのでしょうか。
彼は1483年に宮廷画家であったジョバンニ・サンツィオの息子としてウルビーノで誕生しました。
幼い頃から父親の絵画教育を受け、またさまざまな画家たちから新しい技法を吸収し、上流階級の人々と接しながら成長していきます。
経済的には恵まれてはいましたが、8歳のときに母親が亡くなってしまいます。
崇高で神聖な聖母子画を多く描いたのは早くに亡くした母親への思慕と憧憬の表れであったとも言われています。
若い頃より多くの肖像画の依頼を受けていた彼は、1504年にフィレンツェに拠点を移すとそこで更に己の芸術性を高めました。
その後ローマを訪問し、1509年には教皇ユリウス2世の依頼されて、ヴァチカン宮殿の「署名の間」と「ヘリオドスの間」の壁画の制作を手がけることになります。
わずか3年で彼はそれらを完成させました。その出来栄えは、教皇がヴァチカンの仕事全てを彼に任命してしまったほど見事なものでした。
同時期に彼はサン・エリジオ・オレフェチ教会の設計をし、建築家としての才も発揮し始めます。
その後いくつもの教会の設計を手がけ、かつ多くの肖像画を描いていきます。
この時期が自らの様式を完成させた彼の芸術家としての円熟期でもありました。
今日に伝わっている傑作品の多くは、この時期に創作されたのです。
名声とともに地位も確立されていきました。
1514年にはサン・ビエトロ大聖堂の主任建築家に、そして1517年にはローマ古物監督責任者に任命されます。
果てなく続くかと思われたラファエロの活躍は、1520年にあっけなく終わってしまいます。
彼が熱病によりこの世を去ってしまったのからです。
その日は彼の誕生日でもありました。
わずか37年の間に偉大な業績を残した彼に、ローマ市はパンテオン内部に墓を寄贈しました。
世紀の天才芸術家は今もそこで眠っています。
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