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キュビズムの創始者であるパブロ・ピカソは、20世紀で最も有名な芸術家です。
彼は父親が美術教師をしていた美術学校で学びますが、10歳で油絵を制作し、14歳でベラスケスを凌ぐ写実力を見せ、
早くからその才能を周囲に示していました。
その彼の才能にいちはやく気づいたのは、彼の父親です。
自分の手にあまると思った彼は、本格的な勉強をさせるために、ピカソを連れて一家でバルセロナに向かいました。
そして彼はあますことなく己の才を発揮して、生涯において数多くの名品を残すことになります。
その数は驚異的で、油絵13500点、版画100000点、挿絵34000点、彫刻・陶器300点を制作しました。
彼は世界中に名を知られ、今日も20紀最大の天才画家としてその地位を確立しています。
そんな彼は一体どんな人物だったのでしょうか?
ピカソは、他に類をみない秀でた芸術の才能を持っていましたが、他のことは全く何もできない人間でした。
アルファベットは読めず、算数もできず、教師に協力してもらってようやっと小学校が卒業できたと言われています。
成人すると、女性との交遊が強烈的に激しくなります。
正式な妻以外にも複数の愛人がいて、生涯においては二度結婚し、三人の女性との間に四人の子供をもうけました。
最初の結婚相手のオルガ・コクローヴァはバレリーナでした。
彼女との間にはバウロという息子がいましたが、それにも関わらず、ピカソはマリー・テレーズという17歳の女性と恋愛関係に陥り、
彼女との間に一女までもうけてしまいます。
ピカソはオルガに離婚を迫りますが、彼女は承諾せず、失意のうちに精神を病んで、この世を去りました。
しかし、そうしてピカソを手に入れたかのように見えたマリーとの関係も長続きはしませんでした。
ピカソは今度はドラ・マールという女性と愛人関係を結びます。
ドラは非常に理知的な女性で、ピカソの芸術の良き理解者であったと言われています。
彼女を自分の良きパートナーとみなしたピカソに、マリーは憤慨し、ドラととっくみあいの喧嘩までします。
けれど、ピカソの心がマリーに戻ることはありませんでした。
マリーはピカソの死後に、ガレージの中で首を吊ってこの世を去っています。
ドラとは数年に渡る関係が続きますが、やがて二人の間に亀裂が生じはじめると、今度はフランソワーズ・ジローという画学生との恋愛に溺れるようになります。
ドラは心身を激しく苛まされて、オルガと同じように精神を病んでしまいました。
フランソワーズはピカソの子供を二人産みました。
しかし数年後、彼女は二人の子供を連れて彼の下を去ってしまいます。
ピカソの浮気癖と嗜虐思考に耐えることができなかったのです。
さすがにこれはピカソにとっても大きな打撃だったようです。
けれど彼はすぐに次の愛人を見つけます。
その女性の名は、ジャクリーヌ・ロック。陶器工房で制作をしていたときにピカソに見初められたのです。
ピカソはジャクリーヌと二度目の結婚をしました。
彼女もピカソがこの世を去ると、ピストルで自分の頭を打ち抜き、自殺しています。
ピカソは数多くの女性遍歴を重ねまずが、彼と関わった女性は全て不幸のうちにこの世を去っています。
彼の芸術家としての情念は、他者の人生を喰らい尽くしてしまうほど激しく凄まじいものだったのです。
「女っていいもんだよ」
彼が生涯最後にこの言葉を放っています。
ピカソは、92歳でこの世を去っていますが、その生涯には幾たびも作風が変化しています。
それは常に時代を先取りしていたためと言われています。
青の時代、バラ色の時代、アフリカ彫刻彫刻の時代、分析的キュビズムの時代、新古典主義の時代と彼は常に進化をしていた芸術家でした。
そして晩年になると、彼は今までの作風を全て混合し、そのエネルギーを投入した作品を制作します。
しかし、これらは当時の社会では受け入れられることができませんでした。
生前から富と高い名声を手に入れていたのにも関わらず、「時代遅れの画家」「狂った老人の落書き」とまで批判されてしまいます。
けれど時が経ち、彼が晩年制作した作品は「新表現主義」として、再評価されます。
彼は死ぬまで時代を先読みし、進化を続けていたのです。
それが彼が天才と言われる所以なのでしょう。
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