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クロード・モネは日本でも人気の高い印象派を代表するフランスの画家です。
彼は時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯に渡って追及しました。
そのため「光の画家」という別称があります。
その彼の画家としての生涯はどのようなものだったのでしょうか。
誕生時からその足跡を辿っていってみましょう。
モネは1840年にフランスのパリで誕生しました。
5歳のときに、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住します。
少年の頃より画才を発揮し、10代後半には自分で描いた人物の戯画などを地元の文具店に置いてもらっていました。
その戯画が、その地で活動していた風景画家ウジェーヌ・ブータンの目に止まり、彼らは知り合いになります。
このことが「光の画家」と称される彼の生涯を決定づけました。
1860年に彼はパリへ出ます。
そしてアカデミー・シュイスに学び、そこでピサロと知り合いました。
その後2年間の兵役を経て、シャルル・グレールのアトリエに入塾します。
彼はここでシスレー、バジール、ルノワールらと知り合いになり、共にフォンテーヌブローの森で作品を制作するようになりました。
1865年にはこの4人で同画塾を去ります。
この頃からサロンに度々出展するようになりますが、その評価は称賛と拒否が繰り返されたものでした。
1870年に彼はカミーユと結婚します。
そしてその1ヶ月後に普仏戦争が勃発すると、これを避けて、翌年までイギリスへ亡命しました。
そのイギリスではターナーやコンスタンブルを研究します。
1874年にはパリで開催された第1回印象派展に印象派の名前の由来となる作品「印象、日の出」を出品しました。
ですが、彼らの作品は当時世間から認められませんでした。
1870年代は経済的困窮が続いた上、1879年にはカミーユが32歳の若さで亡くなってしまいます。
この年代は彼にとって最も辛く苦しい時代でした。
しかし1880年代になると展示会が大成功します。
経済的に豊かになり、ロンドンを幾度も訪れながら精力的に作品を制作し、展示会を開催しました。
1883年の43歳のときに、人口300人の土地シヴェルニーに移り住みます。
そしてこの地に「水の庭」や「花の庭」といった理想の庭園を造りました。
この庭園は「生きた美術館」「パレットのような庭」と称され、彼自身もこの庭自体が「自分の最高傑作」と語っています。
彼は没するまでここで過ごし、そして多くの傑作を生みだしました。
彼は同じモチーフを異なった空間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作しましたが、その中で最も作品数が多いのが「睡蓮」です。
このシヴェルニーの自宅の庭にある池をモチーフに、1899年から1926年まで200点以上制作しました。
1900年頃から他の絵は描かなくなり、もっぱら「睡蓮」の制作に傾注します。
晩年、彼は白内障を患い、失明状態にまで陥りました。
しかしフランス国家へ寄贈する大作制作のため、彼は手術を受けます。
回復後、制作に取りかかりますが、彼はこの作品の出来に満足しませんでした。
死の直前にまで筆を入れ続け、「作品の展示は自分の死後に」という条件を国家に出します。
1926年に彼は86歳で没しますが、この大作が正式に国家に寄贈されたのは彼の条件通りその翌年のことでした。
印象派とは「光や風景の動きや雰囲気をいかに絵の中に表現するか」という描法を用いて絵画を制作した画家のグループの名称です。
他に名高い印象派の画家としてはルノワールやセザンヌ、そしてゴーギャンらいますが、彼らは途中印象派の技法を離れて独自の道を歩みました。
しかしモネだけは終生印象主義の技法を追及し続けました。
彼は印象派に最も忠実な画家だったのです。
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