Elisabeth-Louise Vigee Le Brun

エリザベード=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン

フランス パリ出身

1755-1842

 

 


 

 

”麦藁帽子をかぶった自画像”

1782年

ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵

 

 

 

 

 

 

エリザベード=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは18世紀に活躍したフランスの女流画家です。

当時の権威であった王妃マリー・アントワネットのお気に入りの画家であったことでも知られています。

 

そのルブランは1755年にパリで肖像画家ルイ・ヴィジェの娘として生まれました。

父親から絵の教育を受けた彼女は、早い時期からその才覚を発揮し、15歳で既に肖像画家として身を立てています。

父親が亡くなると、母親の再婚相手と反りが合わなかったこともあり、家を出るために21歳の若さで画商ピエール・ルブランと結婚しました。

ピエールは、美術好きの有力者やパトロンに彼女を紹介していきました。

彼女は多くの貴族の肖像画を描き、当代随一の人気画家として成功を収めます。

しかしこのピエールはギャンブル好きの非常な浪費家でした。

彼女が絵筆によって稼いだ巨万の富を湯水のごとく遣ったと言われています。

(後に彼とは離縁)

 

1779年に、彼女はヴェルサイユ宮殿に招かれました。24歳のときです。

そこで彼女は宮廷画家として王家の人々の肖像を描きました。

王妃を描いた絵は全部で25枚にもなり、そのどれも王妃を満足させたといわれています。

王妃とは同い年だったということもあって、意気投合し、仲の良い友人に近い関係となりました。

美声の持ち主でもあったルブランは、王妃を描くときは必ず二人でデュエットをしたそうです。

 

1783年の28歳のときには、王立美術アカデミーのメンバーになります。

当時のアカデミーは女性に対して非常に閉鎖的でしたが、王妃のお気に入りであった彼女はその権威により入会が許されたのです。

 

画家としての地位や人気が絶頂のときに、フランス革命が勃発しました。

王妃のお気に入りであった彼女は、命の危険を感じ、国外へ逃亡します。

イタリア、オーストリア、ロシアなど諸外国を放浪しますが、画家としての彼女の人気は絶対で、どこに行っても歓迎されました。

ローマでは作品が大絶賛され、アカデミア・ディ・サン・ルカの会員に選ばれます。

またロシアにおいてはエルミタージュ美術館の創設者でもある女帝エカテリーナに厚遇され、サンクトベルク美術アカデミーの会員になりました。

皇族の肖像画を多数描きながら、そこで6年間滞在しました。

 

革命の混乱が収まった1802年に、彼女はパリに戻ります。

それでもヨーロッパ上流階級からの引き合いは以前として殺到したままでした。

彼女は引く手あまたの依頼を引き受けながら、1842年に没するそのときまで旺盛な制作活動を続けました。

87歳の大往生で亡くなる数年前の1835年から1837年にかけては、回想録も出版しています。

 

ルブランはその生涯において600の肖像画と200の風景画を描きました。

人気画家だったということを差し置いても、これは実に驚異的な枚数です。

彼女の遺骸は、50歳代のときに購入したルーヴシエンヌの家の近くに埋葬されました。

墓碑には「ここで、ついに私は休みます・・・」と刻まれています。

 

 


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