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おかっぱのヘアスタイル、ビン底牛乳瓶眼鏡、マジックで描いたような鼻の下のちょび髭。
一目見たら忘れられない容姿を持つ、その画家の名は藤田嗣治。
彼は日本人でありながら、エコール・ド・パリの代表となりました。
世界で成功を治めた日本人画家は、明治以降から現代に至るまで彼だけです。
藤田は独自の画風を確立させて、西洋画壇から絶賛を浴びました。
彼は、フランス人から「FOUFOU(お調子者)」の愛称で親しまれ、フランスで彼を知らない者はいなかったといわれています。
彼は二つの大戦が起こった激動の時代を生き抜きながら異国の地で絵画を描き、その名を世界に知らしめました。
その人生を語るには何枚原稿用紙があっても足りないでしょう。
藤田はその生涯において、5人の女性と婚姻関係(籍をいれてない女性も含む)を結んでいます。
一人目は美術教師であった鴇田登美子。
彼らは駆け落ち同然に結ばれますが、その結婚生活も一年余りで破綻してしまいます。
彼は彼女を日本に残して単身でパリに渡ったからです。
パリに渡った彼はモディリアーニやスーチン等と出会い、絵画の自由さ、奔放さを見せつけられ、大きな衝撃を受けました。
日本にいた当時、通っていた美術学校は黒田清輝らに支配され、表面的な技法ばかり教えていたからです。
彼は、「洗濯船」で他の画家らと交流を持ちながら絵画の制作を続けていくことを決心します。
その後、彼はフランス人モデルのフェルナンド・バレエと二度目の婚姻を結びました。
この頃彼は自身の個展を開きます。この個展が非常に良い評判となりました。
これがきっかけとなり、彼の絵は高値で売れるようになっていきます。
しかし、彼の成功に反し、フェルナンドは彼への思いに冷め、別の画家のもとへと去っていってしまいました。
藤田はフェルナンドと離婚し、今度はリシューバトゥという女性と結婚しました。
彼は彼女に「お雪」という日本女性名をつけました。
しかし、彼女のわがままと酒癖の悪さに辟易し、彼女とも別れを告げることになります。
1931年に、彼は写生と個展のために今度は南米へと旅立ちます。
カジノの踊り子であったマドレーヌと共に。
この南米での個展は、藤田の生涯で最大の成功となりました。
この個展により、世界各地で彼の作品が賞賛されたのです。
その後、パリに戻りますが、第二次世界大戦が勃発します。
フランスは彼にとって敵国となり、彼は日本に戻ることを余儀なくされました。
敗戦後、彼は再びフランスへ戻ります。
その後、ついには日本の土を二度と踏むことはありませんでした。
彼が日本をたつ際に言った「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」という言葉は有名です。
彼は1955年にフランス国籍を取得し、59年には最後の妻となった君代と共にカトリックの洗礼を受けました。
その洗礼名がレオナール・フジタです。ダ・ヴィンンチにちなんだと言われています。
そして1968年、癌によりこの世を去りました。
今、彼の遺体はパリ郊外のヴィリエール・バクルに眠っています。
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