Giorgio De Chirico

ジョルジュ・デ・キリコ

イタリア ヴォロス出身

1888-1978

シュルレアリスム 

 


 

 

”赤い塔”

1913年

グッゲンハイム美術館所蔵

 

 

 

 

 

 

 

デ・キリコは「形而上絵画」と呼ばれる独自の世界を確立した画家です。

「形而上絵画」とは実際にある事物を描きながら、その向こうに秘められた過去の記憶や思考、そして不安や謎を追及する絵画のことです。

簡素に述べると、目に見える物の裏側に潜むもう一つの世界を描いた絵画のことです。

 

この語源は、目に見えるものは、本物の認識ではなく現象や外観の内側に真実が隠されているという意味の「メタ・フィジカ」というギリシャ語に由来してます。

それはルネサンスの本質から導き出されて発見された、彼の生涯のテーマとなりました。

 

彼はわずか8歳でデッサンを学び、画家を志します。

17歳のときに、父親が死亡すると、ヨーロッパ各地を転々とするようになりました。

 

彼が、実際に「形而上絵画」と呼ばれる作品を制作するようになるのは、1910年にパリに移住してからのことです。

1912年に、サロン・ドートンヌにその絵画を出品すると、詩人アポリネールから「若い世代の最も驚くべき画家」と大絶賛されたのです。

前衛画家として注目を浴びるようになった彼は、自信を深め、傑作品を次々創作していきます。

そしてダリやマグリットらに多大な影響を与え、前衛芸術のリーダー的存在とまでなります。

特にダリはデ・キリコを心の師として心酔したほどです。

 

しかし、突然彼は古典的絵画に帰依し、ルネサンスの巨匠たちの作品を模写するようになります。

それは、彼が30代のときのことでした。

このあまりにも突然の個展への回帰は、当時のシュールレアリスト達への裏切り行為とみなされて、激しい非難を受けることになりました。

それでも彼は制作を続けていきます。

 

そして1960年代以降から、再び「新形而上絵画」として、メタ・フィジカの主題を蘇らせます。

デ・キリコにとっては、古典への回帰は新たなる形而上絵画の道程だったのでしょう。

 

さまざまな地を訪れた彼ですが、66歳のときに、ローマに腰を落ち着けます。

そして90歳のときにそこで生涯を終えることになりました。

 

生前、彼はアトリエにこもると何時間も出てこなかったといわれています。

そしてまた、アトリエも見せようとはしませんでした。

 

彼は、「謎以外に何が愛せようか」という言葉を愛し、20世紀が生んだ最も謎めいた画家と称されました。

ピカソが最も恐れた画家ともいわれています。

 


前画面へ