Paul Cezanne

ポール・セザンヌ

フランス プロヴァンス出身

1839-1906

 印象派

 


 

 

”リンゴとオレンジ”

1895-1900年

オルセー美術館所蔵

 

 

 

 

 

 

ポール・セザンヌは19世紀に活躍した印象派の画家の一人です。

しかし彼はその派の基本的な手法を用いて制作をすることはしませんでした。

彼は自然の情景をそのまま描かずに、自然の中に幾何学を見出して、それをキャンバス上に表現したのです。

また得意とした静物画では、静物の配置を緻密に計算して描くという独自の手法をも取り入れています。

これらの構成方法は、20世紀美術のキュビズム、あのピカソにまで影響を与えました。

彼は後進の画家にこう語っています。「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と。

それ故に彼は「近代絵画の父」と称されるようになりました。

印象派の画家でありながら独特の手法を用いて、その道の成功をおさめた彼ですが、そこにいたるまでの道は決して平坦なものではありませんでした。

また人付き合いが極端に苦手な性質に加えて、病的なまでに臆病だったことと極度の潔癖症が災いして、対人関係には終生困難がつきまといました。

そんな彼は一体どのような人生を送ってきたのでしょうか。

その生い立ちから見ていくことにしましょう。

 

セザンヌは1839年にフランスのエクス(現在のプロヴァンス)で生まれました。

後に銀行を設立する彼の生家は裕福で経済的に困ることはありませんでしたが、父親が非常に厳格な人間であったため、彼は毎日怯えて暮らしていたといいます。

彼は10代後半から絵画教室に通い始め、画家を志すことを夢見ますが、厳格な父親を恐れてそれを口に出すことができないでいました。

1859年にようやっとの思いで、彼は両親に画家になりたいことを訴えでます。

そして二年にわたって両親を説得した彼は、パリへと向かい、そこでアカデミー・シュイスに入学しました。

そしてその地で浪漫主義のウジェーヌ・ドラクロワや写実主義のギュスターヴ・クールベらの作品に傾倒します。

しかしパリでの生活は彼に精神的な疲労を与え、彼は約半年で故郷に戻ってしまいます。

1862年には再びパリへと赴き、今度は本格的に画家として活動し始めます。

そこで後の印象派となるグループらと「カフェ・ゲルボワ」で知り合います。

しかし人付き合いの苦手な彼はその輪になじむことができませんでした。

ですが、9歳年上の温厚で優しい性格の持ち主のカミーユ・ピサロだけには心を許します。

セザンヌは彼を師と仰ぎ、彼から絵の手ほどきを受け、共に制作活動をしていくようになりました。

またこの頃彼はオルタンス・フィケという女性と知り合い、厳格な父親には隠しながら同棲を始め、一子をもうけます。

1870年代になると彼は第1回、第3回の印象派展に作品を出品しますが、それらの作品は理解されませんでした。

ようやっと入選を果たすことができたのは1882年のサロンへ出品したときです。

このとき彼はすでに43歳になっていました。

しかしその入選は実は彼が審査委員に頼み込んで、やっとの思いで果たしたものでした。

彼の数少ない少年時代からの友人エミール・ゾラと絶縁してしまったのはこのことが原因だったとも言われています。

1886年に彼を押さえ続けていた父親が亡くなると、彼は遺産を受け継ぎ、経済的に困ることはありませんでしたが、相変わらず作品は理解されないままでした。

またようやっと内縁の妻であったオルタンスと正式に結婚はできたというものの、彼女は彼の母と妹と不仲で家の中は争いが絶えることがなかったと言われています。

それでも一人息子ポールへの愛情は終生変わらなかったそうです。

1880年代以降は故郷のプロヴァンスに戻り、そこの風景画や後の彼の代表作になる水浴画や静物画を制作しました。

1890年代になると、少しずつ彼の作品は評価されていくようになります。

1895年にアンブロワーズ・ヴォラールの画廊で開催した個展がきっかけとなって一部の若い画家たちに注目され始めたのです。

そしてその後、彼の作品は高額の値で取引されるようにまでになります。

しかしせっかく注目を浴びるようになったにも関わらず、糖尿病などを患ってしまったため健康状態が悪化していってしまいます。

また精神状態も不安定になり、もともと悪かった対人関係も更に酷いものになっていきました。

1906年に雨に打たれたせいで肺炎をこじらせた彼はついには86歳でその生涯を終えることになります。

 


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